教育連載コラム―未来への戦略-

メタバースが変える医療 ー時間と空間を越えた新フェイズへー【第4回】

帝京大学杉本真樹先生へのインタビュー、第4回です。
第3回ではAI時代にデータ量が多いことが寡占になるという話をお伺いしました。その後、日本でレントゲンの3次元データを集めたいということで帰国された杉本先生にこれからのことをお伺いしました。

ICTの力で日本の医学界を改革する

上松:教育のICT化は必須ですね。社会の変化に教育が対応して行かなければと思います。
杉本:教科書は2D、文字の変換でアーカイブされている仮のデータですよね。なので動きは動きのまま、臓器は臓器のままそのまま覚えて思い出せる方が良いかなと思いました。記憶は覚えるのではなく思い出すのが大事で、英語ではremember(リメンバー)と言いますが2つの意味があるのですよね。日本での覚えるだけで、筆記テストで書くだけで試験に合格したり成績が決まったりするのは教育の弊害だと思っています。スキルを再現しそれを評価するシステムは定量評価ができることが大事。メッシュはそれができるのですよね。
アーカイブしたり追体験し管理出来る場がメタバースという空間です。スノクラブシーという小説にもメタバースという言葉を定義したことがそのように書いてあります。スノクラッシュのニールセンの小説がメタバースとして書いてあります。ちょっとしたSF小説の世界観が成り立ち経済活動もそこで行われるという世界観です。
これまでやる術がなかったけれど、医療はやろうという発想がなかったのですよね。

上松:杉本先生のような改革者が出ることが大きいですよね。
杉本:自分が責任を取るので若い人がどんどんやれば良いと思います。ただ優秀な人がやるだけではだめで、多くの人が誰でもやれるようにならなければなりません。つまりテクノロジーがテクノロジーと気がつかないようにしなければなりません。直感的なものも複雑でなく、考えなくて良いくらいより自然にならなければならないと思います。
XRは人間が本来の自然だと思う物理現象を、自然に再現できる技術だと僕は思います。物理現象で、感覚を刺激して追体験させる体系やシステムがVRであり、定義としては「3次元の空間」「実時間の相互作用」「自己の投射性」を満たすものです。
今まで画面でコンテンツを見るときに自分と言う要素がなかったけれども、自分が中に入り込む感じと、ちゃんとインタラクションがあり立体を捉えるんですよね。自分がどこから見て、どのくらい動いたらどう相手がどのくらい変化するかっていうデータとユーザが共存するのがVR、バーチャルリアリティですよね。そこに現実を入れたものがミックスドリアリティですね。それを医療で行う場合、患者という要素をいかに入れるかが大事になってくるしそうなると良いと思います。
上松:そういった時代に向けて益々杉本先生はお忙しくなりそうですね。
杉本:皆が喜んでくれるので仕事は楽しいです。迷った時の判断基準は、皆が喜ぶかどうかです。皆の中に自分も入っているから、自分と周りを切り離して考えないんです。自分と周りを1個と考えると、ちゃんと自分に返ってくるんですよね。自我と自我の境目をどう拡げるのか、そこが人間の成長とステージアップに繋がると思います。
自己超越の段階を1つ1つ上がらないといけないのですが、自分がちゃんとしていないと人には何もできません。なので自分は今、どこのステージにいるのかを認識することも大事です。人のためにと仕事がやれるようになれば、自分の自己欲求、承認欲求が満たされます。

未来の医療と教育、アバターが作る社会

上松:杉本先生、これからの医療ってどんなイメージなのでしょうか。上松恵理子のモバイル教育というテーマで色々な方にインタビューをしているのですが、教育についてもお伺いしたいです。
杉本:AI時代には前にもお話したようにデータが大事になってくると思います。アメリカではもう進んでいて、どんなゲノムの人がどんな癌になるというデータシビリゼーション、ムーンショットといってオバマ元大統領がスタートした計画を今はバイデン大統領が進めています。
オバマ元大統領の話を聞いていると「ゲノムと環境因子・生活因子と画像診断」の3つを上げているんです。僕らがやっている画像診断のことです。それが重要だな、と思っています。オープンAIのGPT3や4などが出てきてやっと繋がりました。2003年に自分は画像をライフワークにしようと思っていましたが、やっと道筋ができました。20年かかりましたが。

上松:お医者様は神様のように思っています。手術で治るって本当に有り難いし最後はとにかく頼る存在ですよね。どんな偉い方でも最後はお医者様に頼るしかないです。良い環境でお仕事してほしいと思います。
杉本:自分は医師のいらない未来の世界を見ているんですよ。かなりの生活習慣病を予防できるかもしれません。手術もトレーニングを受けて何年もかかってできるようになりますが、これから技術が進みますし医師の知識や技術がなくても手術ができるようになるかもしれないと思います。
上松:ロボットが代替できる、という感じでしょうか、すごい未来が来そうですね。
杉本:IPS細胞もスペアを作っておけば、何かあってもスペアを作ることができるのですよね。この前、Metaverse Japan Summit 2023というトークショーに出たんですよ。メタバース空間のアバターは重要で、ユーザーが具現化・具象化されますよね。別人格があって社会的活動が成り立っているものです。

上松:デジタルツインでしょうか。
杉本:IT系ではデジタルツインって言いますよね。でもメタバース空間だけで成り立っているものがたくさんありますよ。ツインの片割れがいなくても良いしバーチャルが進んでいるかもしれないし、仮想通貨や仮想体験もそうですが、そこだけで生態系が成り立てば現実ベースなデジタルツインはいらないと思います。
今はメタバース自体がもう生態系を持つし、それ自体を独立したものと見れば現実にある必要がない。アバターは病気にもならないし医師もいりません。それで幸福度が十分な人もいますよね。その世界の方が能力を発揮する人もいると思います。
上松:確かにそうですね。今後も東京大学先端科学技術研究センター繋がりで色々よろしくお願いいたします。
杉本:コラボもしたいですね。
上松:そうですね、ぜひ。どうもありがとうございました!

杉本 真樹 氏 プロフィール

医師・医学博士
帝京大学冲永総合研究所 Innovation Lab 教授
Holoeyes株式会社 代表取締役CEO 共同創業者
1996年帝京大学医学部卒。帝京大学肝胆膵外科、米国CA州退役軍人局病院客員フェロー、神戸大学大学院消化器内科特務准教授などを経て現職。医用画像解析、XR/VR/AR/MR、メタバース、手術支援、低侵襲手術ロボットなど、最先端医療技術の研究開発を行っている。2016年Holoeyes株式会社を創業、現CEO。日本外科学会専門医、日本消化器内視鏡学会専門医、日本内視鏡外科学会技術認定医。

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メタバースが変える医療 ー時間と空間を越えた新フェイズへー【第3回】

帝京大学杉本真樹先生へのインタビュー、第3回です。
第2回では医療の革新的な3次元の世界の話をお伺いしました。今回はそのデータの多さが制するAIの時代で作業効率が上がり、医師の負担軽減にも繋がっていくことになるプロセスについてお伺いしました。

医療分野もデータの量が制する時代へ

上松:これまでお話を伺ってきて私が思うことは、アメリカに行かれてからなおのこと、日本と米国の文化の違いを感じられたのではないかということです。日本では実力よりも学歴や学閥、そして誰もが平等に下積みをするようなイメージがあります。すみません、医療の世界を知らないので推測にしか過ぎませんが。
杉本:能ある鷹は爪を隠すと言われていますが、それはアメリカでは「できない理由がある」と思われてしまいます。テクノロジーはあるけれども何に使えば良いかわからないという時期に自分がアピールすると、「こんな使い方ができるよ」と色々な事例を様々な方々からフィードバックとして得られ、自分の研究を出せば出すほど思いもよらない良い方向に拡がるのです。実力があればどこの大学出身など関係ないという事を体感しました。
上松:アメリカは実力社会、能力主義ですね。
杉本:スタンフォード大学に日本人会というのがあります。そちらにはアメリカではバイオデザインをしているあの池野先生もいらっしゃいました。
他には顕微鏡でみる病理のプレパラートに患者さんの病理組織をスライスして写真を撮って記録する装置(ハード)を何百枚、何千枚も作れるようデジタル化して、サーバで管理する医師がいました。その方は起業もされており、大きな影響を受けました。
他にも睡眠学の第一人者でナルコレプシー研究の西野精治先生とか色々な方がいらっしゃいましたね。
上松:そのシステムはすごいですね。どんなことを言われたのでしょうか。
杉本:「まだ臨床をやっているのですか」と言われました。「あなたが8時間手術をやっても1人しか救えないけれども、8時間で100人の医師にその技術を伝えたらもっと多くの人の命が救えるのではないでしょうか」ということです。
上松:それはもっともなことですね。
杉本:「きみはそっちの方だよ、臨床をやっている場合ではない」とまで言われて。その会社はAIがありその全てが教授データとなっているのですが、莫大で追従ができない量となりました。今では全米中がそのデータを使ってるのです。今の時代はデータは量があるのが勝ちなんです。AIなんてまだ誰も言っていない時代でしたが、今の時代を見越していて、自分のことも見越されたのかもしれません。
上松:さすがアメリカですね。どうして日本に戻って来られたんでしょう。
杉本:僕も、当時AIは無かったけれども「レントゲンを3次元にしてデジタル化してアーカイブ」したいと思っていたんです。海外ではあまりレントゲンを撮りませんでした。治療費も高いし放射線を浴びることを極端に嫌がる方もいます。日本は健康保険も完備していますからね。
上松:私は転んで首を痛めてCTスキャンを何回も撮ったのですが大丈夫でしょうか。
杉本:日本は放射線量の管理がしっかりしているので大丈夫ですよ。そういったこともあって、レントゲンのデータを取る土壌が必要ということで日本に戻ってきたのです。

上松:帰国された直後にお目にかかりましたね。当時、私も大学の教員ではなかった身分で、杉本先生はどこの大学に行かれるのかな、と思っていました(笑)。
杉本:神戸大学が決まっていたんです。
上松:そうだったのですね。
杉本:神戸大学の消化器内科は内視鏡で癌を取ることにおいては日本で一番の大学でしたが、外科がいないので、大学で講演をしたらぴったりだということで自分に声がかかりました。UCLAで内視鏡センター長をされていた先生も同席されたのですが、彼も「真樹、神戸大学が一番良いよ。君を伸ばすのは神戸大学だよ。ダビンチというロボットや動物実験施設があって、ポストも医療産業特区で資金も潤沢にある。なぜ行かないの?」と言われて、それはそうだな、と思いました。でもすぐに返事をしなかったのです。
上松:なぜでしょうか。
杉本:そこは消化器内科所属だったのです。でも、それから深く考えたのは「自分が外科にこだわっている」ということに気がつきました。殻を破る時だな、と考え方を変えてオファーを受け取り行くことになりました。途中からは人材育成にもかかわり8年間勤務しました。
生命医学人材養成プロジェクトに携わることになり、医師を養成し、多くの医師をスタンフォードやアップル、ダビンチの会社に送りました。「医師は臨床だけをやっていてはダメだ」と言って送りました。
上松:その後に帝京大学に戻られたのでしょうか。よく戻ってこられましたね。退職のいきさつを伺った時には、日本の医学界で働けなくならないかとヒヤヒヤしましたが良かったです。

杉本:日本で医学部を作らない時期もあったのですが、その当時は、東北医科薬科大学、国際医療福祉大学(千葉)などの医学部ができた頃で、たまたま後者の立ち上げを手伝って欲しいと言われて移動しました。理由は成田で世界最先端のシミュレーションセンターを立ち上げるからということでした。そこではカリキュラムを英語で作るなど、立ち上げまでの2年で色々と協力できたと思います。
上松:成田とこちらを往復する生活がスタートしたのですね。
杉本:東京に居ながら成田に通うことは認めてもらえなかったので、成田には企業がなかなか来てくれないしどうしようと思っていました。その頃、帝京大学医学部の卒業生代表の講演をした時に「帝京大学50周年を節目に大学を盛り上げたい」という話を伺い、沖永学長から声がかかりました。沖永前学長先生のお子様が今の学長です。
実はお父様の沖永前学長が膵臓癌になった時に私が手術をしました。その時にご家族として現沖永学長に手術の経緯をご説明をしていた御縁もあったので、長く外に出ていた自分もそろそろ母校に貢献したいなと思ったのです。

時間と空間を越えるメタバースの利用

上松:これからいろいろと楽しみですね。海外では5Gの話も出ています。私もマイクロソフトのシアトル本社で5Gの体験をしたのですが、これから5Gはどう展開して行くのでしょうか。
杉本:テラヘルツ(1兆ヘルツ:1.0テラヘルツ)だと帯域は狭いのですがヘリくらいだったらほぼ8Kくらいの映像が撮れるだろうと思いました。京都で8K×8Kの2眼の立体の実証実験をやった際はビルとビルの間で飛ばしていて、その間でたまたま工事をしていてクレーンが入ってしまい、そこでちょっと切れることがわかりました。リアルでやれる証明はできたけれども、やはりそういった課題がありますね。
上松:これから杉本先生はどんな方向で行かれるのでしょうか。
杉本:うちのホロアイズという会社では、1人の患者さんを1対1で治すだけでなく多くのバリエーションのあるデータを共有することができます。でも個人情報を消さないといけないので、ポリゴンという特徴点だけの座標を共有しています。これは特許です。そのデータをためていくと教師データとしてビッグデータになると思います。
現在ではAIが見ている教師データは2次元画像だけなのですが、Zの座標を入れることによって後々は立体の形状認識ができるようになります。3次元は2次元の連続、動画は1次元の連続なので。もうマイクロソフトではメッシュというサービスでローンチしています。臓器や癌や血管、フルボディのデータは機械学習のデータになって定期予報ができるのですよね。

ポリゴン化してデータを見れば、将来的には手術にまで繋げられるのではないかと思います。さらに将来はロボット化されると思います。患者のレントゲンだけでなく、例えば、天皇陛下の手術をされた先生の手の動きと音声データが3次元の座標と時系列でたまっていれば、ゴーグルを被るだけで音声解説を聞きながらその先生の動きを追体験することができます。
上松:二人羽織のようですね。お医師さんになるまでの課程で早めに体験できると良いですね。
杉本:時間と空間を越えるのがメタバースなんですよね。アインシュタインの相対性理論で、4次元とは3次元に時間を足したものです。メタバースは4次元だと思っています。まだ時間を先に行くことはできないけれども、遡ることはできるのですね。脳がいかに時間認識と空間認識をすることができるか、それがあれば過去を再現できますし、それを鍛えることが重要だと思います。
上松:教育の世界にとても関わることですね。

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メタバースが変える医療 ー時間と空間を越えた新フェイズへー【第2回】

帝京大学杉本真樹先生へのインタビュー、第2回です。杉本先生による医療現場の改革とICT化の関連についてお伺いしました。

医療に3次元のICTプロセス

上松:病院が経営破綻寸前になった原因は何だったのでしょうか。

杉本:医師らが疲弊していたんですよ。古い体制でなおかつ、医師にありがちなのですが自己犠牲をしており、非常に非効率な状況に疑問を持ちました。医療を良くするには医療従事者を良くしなければと思ったんです。働き方改革と最近言うようになりましたが、働き方改革によって効率化してプライベートも充実して、QOL(quality of life:個人の人生の質)を上げることが大事だなと思ったんです。医師のQOLって当時の医師はあまり考えていなかったんですよね。
お金のインセンティブって限界があるんですよね。生きがいとかお金以外のものが大事だと思います。

上松:QOLを充実させることでどうなりましたか。

杉本:結果としてQOLの充実とICT化により収益が上がって、さらに後輩の育成をすることもできました。

上松:それはものすごい成果ですね。医療従事者の働き方改革とICT化をされたのですね。

杉本:はい、2000年くらいからCTが普及したのですが、ちょうど2006年くらいから3次元の16列のマルチスキャンのCTが入ったんです。やっとソフトが出回り、これだ!と思いました。平面だったレントゲンが立体になると奥行きがわかるので、治療するには輪切りよりも楽なのですね。
建物を建てるのも立体に見える方が良いのと同様に、実際に手術をするときに3Dでやれば、まるでカーナビが側にあるようなものでとてもやりやすいです。平面が立体になったことによる良さですね。

手術の様子

上松:確かに建造物も立体の方がわかりやすいですよね。
杉本:アントニオ・ガウディのサグラダファミリアは3Dプリンターが入って急速に建築が進んだのです。3Dでガウディの書いた設計図が簡単に具現化したので、完成は相当早くなりました。
上松:私たちが生きているうちには完成できないと以前は言われていましたが、進んできていますね。3Dはこういった立体の技術に関連しているのですね。

杉本:サグラダファミリアに行きましたら3Dプリンターが地下にいっぱいあるのを見たことがあります。立体感という空間認識は重要で、それを再現するアプリの開発をすれば良いと思いました。
上松:実際に行かれたのですね。正確かつスピードアップもできれば手術の負担も軽減されますからね。それを開発すればすごいことですよね。
杉本:はい、そんなアプリを作ろうと思っていたら、アップルのホームページに医用画像解析アプリ「OsiriX(オザイリクス)」という無料のソフトがあって、アップルのパソコンを使えば簡単に3D画面になることがわかったんです。つまり患者さんのCT画像はそのソフトを使えば3次元的に見えるということなのです。これは画期的だなと。
また、従来は病院の中にしかない高いコンピュータを使わなければ立体化は不可能でした。しかし、OsiriXはスイスのジュネーブ大学で開発されたMac OS X上で動作する医用画像ビューアシステムですから、Macを買えば自分のコンピュータに無料でダウンロードでき誰でも使えます。そこがとても良かったのです。患者のデータが自分の家のパソコンで立体に再現でき、ソフトはオープンソースだったので自分のパソコンで3次元で見れたんです。
これは技術の民主化だな、と思いました。何とかこれを治療に役立てたいな、と思いました。


上松:こんなオープンソースを目にするなんてインターネットはすごい可能性がありますね。これまで手作りで模型を作る方もいらっしゃる時代だったのに進化ですね。
杉本:患者のレントゲンの中で測るツールはまるでカーナビが手元にあるようで、もうちょっと行ったら危ないってこともわかるのですごいと思いました。2006年に学会発表したら「それはいくらか」と金額を聞かれるようになり、売りものではないけれども売ってくれといわれました。また、アップルの社員がいて「うちのアップルのホームページに紹介したい」と言われました。当時ヘルスケアのウェブページを立ち上げたけれどもコンテンツがなかったとのことで「うちの製品が人の命を救う」と感動されました。
以降やりとりするようになり、1年間かけてウェブサイトを作りました。その後、2008年に杉本真樹という名前で事例を出してくれるようになりました。私の記事の一つ前には内視鏡のドクターの事例がありました。
上松:どんな事例なのでしょう。
杉本:これまで内視鏡の高額なカメラで撮った画像はHDでようやく癌だと判別できたくらいのものだったが、Macの画面でサーバーにつないで、多くの医師が一斉にみんなでアクセスして見られるようになったため、癌の診断率が高くなり発見が早くなったというものでした。そのドクターはオリンパスのような良い製品があった日本によく来ていたことがわかりました。
上松:確かに日本はカメラ分野はすごいものがありましたよね。
杉本:それで手術をするところをそのドクターにお見せしたのですよ。しかし滅菌の手袋をしたらパソコンを操作することができなかったので、その時は日本のWiiリモコンでやりました。ドクターには、スタンフォードに留学をして退役軍人病院で一緒にやらないかと言われました。アップルの記事もまだ途中だったこともあり、直接時差なくやりとりしたかったこともあります。当時Zoomなどはありませんでしたからね。
上松:渡米されるのですね。
杉本:はい、そうです。ところが大変なことがあったんです。留学は推薦状が無いとできないので、自分の教授に推薦状を書いて欲しいと言いました。自分としては、博士も取ってアメリカで評価されることで、自分が行く前の病院も収益が上がり立ち直ると思いました。また、これからは海外だと思うし、自分が行けば後輩に将来のルートを作ることもできると思いました。しかし当時の教授にはもっと外科の下積みをしてから行くようにと断られ、即座に退職届を出しました。

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メタバースが変える医療 ー時間と空間を越えた新フェイズへー【第1回】

今回は帝京大学の杉本真樹先生にインタビューを行いました。筆者は10年以上前に杉本先生にお目にかかったことがあり、今回の御縁をいただきました。今新しいフェイズに向かっている医療の世界を杉本先生はどのように変えて行かれたのか、お伺いするのが楽しみです。
今回は全4回でお送りいたします。

外科医になったきっかけ

上松:杉本先生にお目にかかってから10年以上が経ちましたが、あれからかなり、先生のご研究も進まれたと思っております。社会も変化し、特にICTの技術はものすごく進歩しましたね。これからもICTの分野は進化していくと思いますので、久しぶりにこの最新情報についてトークできればと思ってお伺いしました。さらに最先端の教育についての現状や未来展望を伺うことができましたら幸いです。
以前お目にかかった際には、まだ帝京大学には勤務されていらっしゃらなかったですよね。

杉本:そうですね、帝京大学に勤務するよりずっと前でしたね。引き続き現在もテクノロジーで医療が良くなれば良いな、と思って大学の教員と会社をやっています。

上松:その気持ちをぶれずにずっと持ち続けているっていうのは素晴らしいことですね。先生は昔どんな子どもだったのでしょうか。

杉本:機械いじりが好きな子どもでした。時計を分解したり感電も何回もしたりしたこともあります。

上松:そもそもどうしてお医者様を目指されたのでしょう。親の職業を継ぐケースはあるようですがご実家が病院を経営されていたのでしょうか。

杉本:いえいえ、両親が医師ではなかったので家を継ぐという状況ではなかったです。なので、高校までは正直どんな職業に就こうかな、と思っていました。でも「人の役に立つ仕事が良い」と思っていました。理系でSTEAM系や英語も得意だったので、工学部も理学部も選択肢としてはありました。でも将来の職業を考えると「医学部を出たら医師になる」という明確さがあるのが医学部なので、大学で勉強することが将来に直結すると思い医師を目指しました。

上松:なるほど。何かに影響を受けたことはありますか。
杉本:当時「世の中が混乱しても医師は医師でいられる。人1人ができることが大きく、自分が人間である以上、役に立ち最も貢献できる。その人にとって一番嬉しいことは命を救われることだ。」と書いてあった小説を読み、医師って素晴らしい職業だな、と思いました。それで医師になろうと思って周りをみたら、親が医師だという同級生が意外にも多かったのです。
上松:先生は暁星高校でしたよね。そういう同級生も多かったという環境が最後の一押しでしたね。
医学には専門も色々あると思いますが、外科医になられたのはなぜでしょうか。

杉本:実は外科医になりたくて医学部に入ったと言っても良いくらい外科医になりたいと思っていました。薬を飲んで様子をみるというゆっくりできる性分ではないのもありますし、外科医は悪いものを取って治すという非常にシンブルでわかりやすいもので、やりがいがあると思いました。また、外科医は内科をカバーすると言われています。やりがいのある必要とされているものをやりたいという野心がありました。
上松:手術は長時間にも及びますし体力も要るように思います。もちろんどの分野も大変でしょうが、人の命を預かるのでとても大変だと感じます。

杉本:人は嫌がるけれども自分はやってみたいし、ブラックジャックのように(笑)手術がやれるので手術をしたいという、そういう発想もありました。せっかく手術のできる免許があるのにやらないのはもったいないな、と思ったこともありました。
今は3年間の研修後に専門を決めるのですが、その当時は医師免許を取れたら何かの医局に所属することができて、すぐに専門を決めることができたので外科医の道を選びました。

上松:本当にぶれないですね。

杉本:ただ、家が医師でないから医療をやるということはどういうことかわからず調べてみたら、けっこう古い非効率なことをやっているな、と感じました。医療はICTの要素がなかったので新しくなる方法はないのかな、と思っていましたが、まずは医師として一人前になろうと思いました。

博士取得、地方の大学病院へ

上松:外科医になられたご決断は、今も正しいと思っていらっしゃいますか。
杉本:はい、もちろん。医師になってから救急救命センターにも居たことがあって、色々な専門の医師がローテーションで来られたのですが、外科出身の先生は何でもやれて「よしやるぞ!」とやりがいがものすごくありました。それを見て外科医になって良かったな、と思いました。
ただ、外科医は1人でやれる範囲が大きいのは良かったんですが、出番も多く責任も重いので、なんとか効率化しないとならないな、という気持ちはその時にもありましたね。
自分のスキルをもう少し確立したいなと思って、その後、勉強の仕方を知りたくて大学院に入り博士を取りました。
上松:勉強の仕方を勉強するっていう発想で大学院に行かれるというのは素晴らしいですね。自らをアップデートされ、その後の活躍が気になります。

杉本:バリバリと博士まで行き本院に行くのかと思ったら、なんと、地方の大学病院に行くことになったんですよ。

杉本真樹先生と筆者、インタビューの様子

上松:それはいきなりどうしてでしょうか。
杉本:経営破綻寸前のとある病院の医師たちが一挙に居なくなり、欠員がでたのです。そこは学閥もあり、先生方が多く辞めてしまい手術もできないし、なんとか外科医を補充しなくてはならないという話が出ていました。その時の私の担当教授が、うちの教室から何人か派遣することになりました。
上松:それは大変そうですね。
杉本:そう、もしかして試されたのかな、と思いました。それで後からなのですが、「誰に行ってもらおうかと思ったけれど、一番生意気そうなヤツを選んだ。1人で何でもできるし周りからの圧にも負けないし」と言われ、学閥のある中でやっていける人物だと思われたからだと知りました。
上松:それは杉本先生の実力が買われたのですね。先生なら何かやってくれそうだということだと思います。
杉本:先生の意図を知り、病院が本院に負けないくらいブランディングをして成果を出すのが自分のミッションだと思いました。なぜ医師たちが一挙に引き上げて経営が上手くいかなくなったのか、臨床をしながら俯瞰して課題を洗い出そうと思ったんです。

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リスキリングと自己実現【後編】生徒の求める芸術教育のつくり方

埼玉県立芸術総合高等学校 中庭

テクノロジーとの関係について

上松:西澤先生は何事にもアクティブで何より生徒思いだと感じました。
西澤:自分が何に反応し、何ができるのか。そして、どんなサポートが必要なのか。これがクリアになってくると、彼らの力はもっともっと大きく羽ばたいていけるように感じているからです。自分も気になったら現場に行って体感するということを日常的にしています。友人の情報の感度が高いから面白そうな情報がネットを通して入って来る。ネットで記事を読んだり動画を見たりもできるけれど、「行くと決めれば行く方法は見つかる」と信じて、現場で体感することを大事にしています。
上松:体感、大事ですよね。そして先生ご自身も色々とご活躍されていますね。アトランティックシティで開催されたNECC’99で英語で事例発表、ベルリンに現地集合するADEの研修に参加、日本で初めて開催されたGoogle認定イノベーター研修に参加、Perfumeのライブにも行かれているということですごいです。

西澤:Perfumeの映像を作っているライゾマティクスのイベントにも行きました。現場で感じて行動するのは、写真にもつながる。写真はそこに行かなければ撮れないですから。
上松:なるほど。生徒たちとの関わりに活かせることがたくさんありますね。生徒たちは、コロナ以前とは変わってきている感じがしますがどうでしょう。
西澤:コロナの影響は大きいですよね。分断も生まれましたし。しかし、それを乗り越えるために別の方法を探っているところもある。人とうまく繋がることができるようになることが大事ですね。


埼玉県立芸術総合高等学校の屋上


スマートフォンが当たり前ですし、GIGAスクールでネットを活用した学びも日常になってきていますよね。同じテーマでも小学校の時に見えていたものと高校では違って見えることもあり、高校でも学年が進むと深まってきます。順番に1回やったらクリアとか、考えずにひたすら書くとか、正解が1つしかないとか、そういったものではなく、答えがない問題をいろんな手を借りて共に取り組む学びが増えてくると思います。
上松:教育も変化を余儀なくされていますね。ところで、先生の声はとても綺麗ですね。
西澤:大学時代、合唱団に入っていたからかもしれませんね。映像で伝えることには言葉も必要だし、一方、実はなかなか伝わらないこともあると思います。映像芸術科では3年間、伝えることのために自分をどうみるか、相手をどうみるか社会をどうみるか、そのための時間を取っています。いったんできあがった後に、他の人の作品を見て、どうブラッシュアップするか、ということがカギです。完成した作品の評価以上に、制作を通してどう考えてきたのかが大事です。
上松:主体的に考えないとその答えが出ないですよね。
西澤:映像にできるけれど言葉ではいえないこともあるし、言葉ができても映像にならないこともあります。映像にする、言葉にする、この繰り返しの中で自分の考えが伝わる形になっていきます。

見学した授業内容

上松:この授業は「マイ卒業アルバム」を作り自分の写真を1冊にまとめるというものですね。私もライフヒストリーから目標を持たせてブランディングをさせる授業をしています。この授業の成果はどんなことがありますか。とても真剣に写真を選んでいましたね。

西澤:やはり自分のこれまでをふりかえることと、ポジティブなプラスの要素をあつめることで自己肯定感が高まっていく様子が見て取れることですね。1冊目はフォトブックの編集を体験するために全員24ページ構成で作り、お互いのフォトブックを見て、こんな感じて作ればいいのかをつかんで、本番の2冊目は各自で構成とページ数を考えてという感じです。

上松:撮影の機材がすごくて驚きました。さすが芸術の専門高校ならではと感じました。西澤先生のご準備も大変ではないでしょうか。

西澤:照明を用意し立つ位置や顔の向きで写りが良くなるとか、基本的な準備してヒントは伝えるけれども、撮りながらお互いに話あって、どうしていけばいいのかを試していくというスタイルです。
上松:こういった環境とスタイルで結果として主体的に色々なことを考え捉えるように見えますね。チャレンジしたくなる環境と課題なら生徒は積極的に行動するものなのだと感じました。

西澤:いっしょにチャレンジできる仲間の存在も大きいと思います。
上松:素敵ですね。授業を見学した中で、これからの授業実践を考えている先生方に役立つような要素をどう入れるかが大事だと思うのですが、西澤先生はどうお考えでしょうか。

自ら学びたくなる環境構築が大事

西澤:授業をデザインするときに考えていることは「子どもたちの今とつなぐ」ことです。学校の行事や進路に役立つ課題だったり、地域や世界とつながるものだったり。生徒たちの今に役立つことが感じられて、自分で考えて工夫する余地がある課題にするにはどうすればいいかを考えています。生徒の今を知ることがヒントになるので、ちょっとした雑談の中からヒントが見つかることもあります。
上松:あとは環境も大事ですよね。
西澤:はい、「自分から学びたくなる環境」をどう作るかということも大事です。教室に入ったときにわあっと感じるような場の力を使う時もありますし、課題を説明する時のサンプルが魅力的にうつったりチャレンジしがいがあるものだったりと、最初の印象を大事にしています。そして、同じルートで同じ提出物ではワクワクすることは難しいので、途中段階でも自分で探索することや仲間と協力することが必要とか、こういったプロセスの中にも各自で工夫する余地を大切にしています。
上松:それは単に生徒が「自由に取り組む」だけではないですね。
西澤:制限をうまく設定することも重要です。ゴールに向かっていろいろな登り方があるにしても、時間の制限や課題として押さえておくべきことを説明しておく必要があると思います。企画書の提出や企画面談の中でこうした点をおさえているかどうかを確認し、途中段階でも何箇所かチェックポイントを設定するようにしています。
上松:他に何かありますか。
西澤:そうですね、やはり「表現の場」を作ることです。完成して終わりでなく、いったん完成した後にブラッシュアップする場をどう用意するかを考えています。
映像芸術科の授業では、中間講評会を大事にしています。完成して展示や発表をしたときにアドバイスをして次に活かすというのはちょっともったいないと思います。仲間の作品を見たり、先生からのアドバイスは自分へのものはもちろん他の人へのアドバイスの中で役にたつものをつかんで、今取り組んでいる作品に活かすチャンスがある方が素敵だと思います。
ここでのブラッシュアップは、自分がこだわりたい課題のときは細部をつめていけるし、もうこれで精一杯というときは最低限の修正のみで。こうした選択も生徒にまかせて、最後の部分でこだわった人をほめていくと、最後まで粘る雰囲気が作られると感じています。

それぞれの違いを認め合い、他の人のすごいところで自分がやってみたいと感じることは吸収して、ブラッシュアップする。こんなことを表現する課題の中に入れていければと考えています。
上松:生徒に任せたり委ねたりも大事ですね。中間講評会でのやりとりで色々なアイデアがまた再構築されるというのは良いスパイラルになりますね。西澤先生の授業からそのような流れが見て取れました。

西澤:スパイラルは効果がありますね。1つの課題の中だけでなく、年間を通して前に学んだことを役立てて次の段階に進むことができると、生徒自身も成長を実感できますから。そして、生徒たちが教師の想定を超えていくことにワクワクしながら、AIなど新しい流れを積極的に取り込んでいくことが、これからの授業を考えていく上で役にたつと感じています。
たくさんお時間頂きましてありがとうございました。

西澤 廣人 先生 プロフィール

1962年埼玉県入間市生まれ 埼玉県立芸術総合高等学校・映像芸術科教諭
NPO法人CANVASフェロー/Apple Distinguished Educator2011、Google認定イノベーター2019/DaVinci Resolve認定トレーナー2022

  1. 教員暦37年 4つの教科を担当する
    37年間の中で国語科、家庭科、情報科、映像芸術科の4つの教科を担当。
    担任を21年(3年担任は8年)、分掌では生徒会と進路指導を主に担当。
  2. ICT活用の研究会でつながる
    多くの研究会に参加し、事例発表やワークショップを担当。ACE教育とコンピュータ研究会とメディアキッズプロジェクトに立ち上げから参加。ACEの全国大会であるPOEMや、メディア創造力の育成を目指すD-projectで事例発表をした。オーム社からマッキントッシュやハイパーカードに関わる本を出版。AppleのADEとGoogleのイノベーター研修を受け資格取得。
    東京書籍で情報科教科書作成チームに2000年から編集委員として参加。2020年から編集協力委員。
  3. プロフェッショナルから学ぶ
    東京工芸大学での研修の後も写真を学び続ける。テラウチマサト氏のプレミアムポートレイトクラスに参加(2012〜2022)する他、水谷充氏、鈴木光雄氏、小林幹幸氏、高桑正義氏、一色卓丸氏のワークショップに継続参加し、プロフェッショナルから見方、考え方を学ぶ。
    2017年には個展を開催。富山市ガラス美術館でのTMT展をはじめグループ展にも多数参加。

教育連載コラム―未来への戦略-

リスキリングと自己実現【前編】教育は教師のスキルアップから

今回は埼玉県にある埼玉県立芸術総合高等学校教諭の西澤廣人先生にお話を伺った。
筆者は時々、海外の芸術を扱う高校へ訪問することはあるが、日本では珍しい。またカリキュラムも興味深かった。というのも「美術科」「音楽科」「映像芸術科」「舞台芸術科」の4つの芸術系学科を有し、普通科を置かない全国でも類を見ない専門高校として、2000年に開設されたからである。

映像芸術科は、映像表現を学ぶことを通して、様々なメディアで「伝える」力を育てる学科で、現代社会の中で求められる力を培うという。映像芸術科は、芸術としての映像に関する専門的な学習を通して、創造的な表現力を高め、豊かな感性を育て、映像メディアに関する情報を理解し、判断できる力を培うとともに、自らの考えを他者へ発信できる能力を育成することをねらいとしている。情報社会では必要な力である。
また、メディア・コミュニケーションとデザインを学ぶ映像芸術科の授業では、伝えたいことを様々な媒体(メディア)にまとめ、伝える実践(コミュニケーション)を繰り返し、その中で、伝えるための様々な工夫(デザイン)を学ぶ。つまり自己を表現する力を養うことを目的としたカリキュラムが1年次から組まれている。

高校の教員になったきっかけ

上松:今日はとても興味深い授業を見せていただきました。私も埼玉のこの辺りは詳しいのですが、入間市と狭山市と所沢市と飯能市が入り組んでいて、景色としては狭山茶の茶畑が広がっていたり富士山が見えたりと本当に風光明媚ですね。とはいえ都内に行くのは西武線も有り便利。デジタル社会と自然が合わさった場所ですね。
西澤:ほんとにそうですね。学校の廊下からも秩父の山々に沈む夕陽が見えるので、生徒たちは空がいい色になっていると声をかけあってスマホで写真を撮っています。私にとってもこの景色は見続けてきました。入間市の生まれで、入間市と所沢市で教員をしてきたので。
上松:高校の教員になったきっかけは?
西澤:教員になったきっかけは父です。父は小学校の教員で児童文学を書いていたので、小さいころから本に囲まれて暮らしていました。大学は文学部で日本文学を専攻し、高校の国語の教員になりました。自分の高校時代は、SF小説やファンタジーにはまっていて、映画が好きで、特にスターウォーズの影響を大きく受けました。もしその時に、今自分がつとめている高校があったら映画を学べる大学へ進んだかもしれません。
上松:映像については海外では国語の授業でやっているところもあり、文学と映像はメディアとしてはリテラシーにおいて共通の観点が多いですね。私も論文をいくつか書いて引用などもされましたが、文学におけるメディアリテラシーと映像におけるメディアリテラシーの共通点を書いたものです。映画だとシネリテラシーですね。

西澤:映像のメディアリテラシーは映像芸術科の授業の中ではいろいろな形で扱っています。映像の時代になったので、これからは多くの学校に広まっていくと思います。
上松:大学卒業してからすぐに高校の教員になられたのですよね、その時代、高校の先生の競争倍率は高かったですよね。新潟でも7倍、おそらく埼玉だと10倍近かった時代でしょう。
西澤:そうですね、2桁まではいかない時でしたが競争率は高かったです。1校目が9年間、2校目が10年、3校目が5年、今の学校は13年となりました。
上松:当時、高校の先生はけっこう長く転勤がなかったですよね。新潟もそうでした。コンピュータとの出会いは高校の教員になってからでしょうか。商業の先生がワープロを教えるようになった時代ですよね。
西澤:コンピュータとの出会いは高校の教員になる前です。字を書くことがほんとうに苦手で、タイプライターを見たときに自分にはキーボードが必要だと直感したんです。なので、先ずはタイプライターを購入し、コンピュータもMSXを買いました。この時は英語しか打てなかったのですが、大学2年の時にお相撲さんの高見山がワープロを持って「このワープロは運べます」というCMが登場して、ワープロの時間貸しをするような時代が来ました。
上松:懐かしいですね。
西澤:当時、ジャストシステムが開発したばかりのワープロソフトが登場したので店頭で試して、大学4年の時にNECの9801で初めて3.5FDDを搭載したU2と一太郎の1世代前のjX-WORD太郎を買いました。これで卒論を書こうと意気込んでいたら、指定の原稿用紙だったのが卒論にはつかえなかったのでちょっとがっかりだったんですけどね。
教員になった時に個人でパソコンを持っている人は珍しかったのですが、1990年ごろからどんどん職場にコンピュータが広がっていきました。私はMacを買い、一体型だったのでそれを入れる袋も買って、モバイルでないけれど、学校に持って行きました。
上松:ミニデスクトップのようなものですよね、すごく重かったでしょう。
西澤:そうですね、自転車に乗せて行く感じですね(笑)。
上松:私も職場に自作のパソコンを置いていました。その頃はマザーボードを取りつけ教務室の自分の机にセッティングしていました。聞かぬは一時の恥と思って得意な先生に教わったのも良い環境でした。その当時、卒業生と名簿のフォーマットや外字エディタで渡邊と渡邉とか、無い文字を作ってフロッピーに入れて転勤の置き土産みたいにしていました。あと今なら簡単な関数のExcelですが、点数で65と入力すると評価が3と表示され、80と入力すると5と表示されるようにファイルを作りとても喜ばれました。でも学校はWindowsで家ではMacでした。
西澤:当時からMacは音声合成ができたのでExcelのシートにテストの点数を入れてマックで読み上げて入力確認をしていました。そのころ各高校にコンピュータ室を作っていく流れが始まり、学校ごとに導入プランをたてることができたのでMacのLCを入れました。当時はまだイーサネットがなかったのでフォーンネットという電話線で接続するものを使って、電子メール体験とオブジェクト指向でプログラミングができるハイパーカードを使って教材を作っていました。例えば、国語の道案内の教材を作って、動画を見ながらそれを言語化する教材など。

上松:NASとか無かったですからね。メールなんかもISDNで大変でしたが、その当時の話がとても興味深く理解できます。コンピュータがこれから学校へ普及し始める時代でしたね。
西澤:当時からコンピュータは表現の道具だと思っていたんですよ。学校でどういう風に使っているかを知りたかったので、おもしろい実践に取り組んでいる小学校に見学に行ったり、小学校の先生方の実践の話を聞きにいきました。
パソコンの授業といえばオフィスソフトの使い方を教えるイメージがありましたが、表現の道具ということを最初から大事にしていました。自分を表現するために絵を描いたり、写真を使ったり、それと組みあわせて言葉をどう使うかを意識していました。]

他教科の免許の取得と育児休暇

上松:先生は家庭科の免許を取られたり、男性として当時、育児休暇を取られたりとすごく先進的で活躍されていましたね。

家庭科の調理実習中の西澤廣人先生

育休中の西澤先生

西澤:生徒と同じ状況に自分を追い込んで、生徒に関わり続けることをいつも考えています。生徒の背中を押すために自分も色々トライしてみる。生徒自身が伸びていくことに関わりたいと思ったからです。
上松:素晴らしいことです。しかし、なかなか背中を押しても動いてくれないのが現状ありますよね。本気を出すためのスイッチをどう押すかが課題です。自分も色々とトライしていますが、「先生だからできるんでしょう」と言われることが少なく無いです。挑戦した後、もし失敗しても成功の素だと思うのですよね。なのでトライは大事だと思うんです。
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上松:私が高校の教員になった頃は本当に二十四の瞳の映画のような世界で、生徒と教師の心の繋がりがとても強固な関係でした。心から尊敬を受けていると感じた時もありました。しかし時代が変化し教員と生徒の関係性も時代とともに変わりましたね。
西澤:彼らは、自分が見ているものから学んでいると感じます。動画やゲームなどからも。そこから感覚を掴んでいるから、細かくステップで教えなくても、方向性を示すと映像で表現することができるようになっている。
一方、表現するというチャンスは多くは与えられていない。身近な他人の表現を見る機会も。映像芸術科の生徒たちは、授業や学校生活の中でここにチャレンジしています。表現することは、自分を見つめることですから、そのためには表現する機会と、いっしょに取り組む仲間が必要なんです。そして、仲間に加えてこれからは、自分を見つめて何が好きで何に反応するかをつかむために、AIもサポートしてくれるようになると思います。

映像芸術科の実習室

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想像が創造を紡ぐユカイ工学 【後編】ー 開発はグループワークの創作実践から ー

青木:当社が提供するキットにはハサミだけで作れる小学生向けロボット製作キットもあるんですよ。ロボット教室のイベントに使ってもらうなどで役に立っています。先ほど、チームラボ時代の同僚も一緒に働いているという話をしましたが、ロボコン出身のメンバーもけっこう会社にいるんですよ。
上松:それは良い関係が続いているのですね。素晴らしいです。
しかし色々とアイデアが出てきますね。どうやって開発まで進んでいくのでしょうか。
青木:毎年、社内でハッカソン形式のアイデアコンペをやっています。準備期間は2ヶ月くらいで、社員全体で6チームくらいつくります。これは部署に関係なく、経理や事務の方も含め一緒に多様な方々と組みます。色々なバックグラウンドや年齢の方がいるとアイデアが出てくるんです。
そうして2019年に発売されたのが、コミュニケーションロボットの「BOCCO emo(ボッコ エモ)」です。
ぼっこ という言葉は、家にいる座敷わらしからイメージして付けました。
BOCCO emoにメッセージを送って読み上げてもらう機能があるのですが、人が言うと怒るメッセージでもロボットが言うと怒らず素直に聞いてくれることがあります。

BOCCO emo

上松:他にはどのような取り組みをされましたか。
青木:他にはライザップとコラボしました。自宅にBOCCO emoと体操映像を表示するタブレットを置き、運動した内容やその日食べたものをロボットにヒアリングしてもらったり、運動を促すメッセージをしゃべらせるという実証実験を行いました。
あとは、タクシーの配車サービスをロボットで呼べるようにする実験もしましたし、賃貸物件の内見の自動対応など、さまざまです。
上松:活動が多岐に渡っていますね。ところでコミュニケーションロボットの評判はいかがでしょうか。
青木:人の動機づけをするインターフェイスと思っています。家で暮らしていて元気になれるように、人の行動を応援し、人に寄り添って元気づけてくれるもの。便利な生活というより、心の豊かさを育むものだと思います。
甘噛みハムハムも一見オモチャ的で、若い方が話題性で購入してくださっているのかと思いましたが、ペットを亡くされた方の心の傷を癒やす助けになる、つまりペットロスに対する需要がありました。またシニア層にも売れました。
上松:開発にあたり、女性もキーポイントになってきていますでしょうか。
青木:「Qoobo(クーボ)」を作ったのは女性で、美大で陶芸をしていた方です。ぬいぐるみ型の商品ということで採用活動でも女性の応募が多くなりました。昔は男性が物を作る傾向がありましたが、弊社はそうでもないようです。

上松:小学校ロボコンに参加する女の子はどうやったら増えると思いますか。
青木:実は夏休みに弊社が開催したロボットコンテストでは女の子が優勝したんですよ。その時のロボットは動きが数十種類あるものだったのですが、男子は3パターンしか出せなかった一方、女子が40パターンを作ってきたということがありました。そういったことでは男女の別はないと思いました。
上松:環境もあるのかもしれませんね。
広報 青井さん(以降、青井):私は4年前にユカイ工学に入社し広報活動をしています。以前は、音響に勤めておりましたが、面白そうな会社に入りたいと思ったんです。
PRやマーケティング活動、ご購入いただくための様々なイベントを行っておりますが、お客様へのインタビューを実施したところ、20代の女性をターゲットにした商品でも意外に幅広い年代層の方に使っていただいており驚いています。
上松:お年寄りにも評判になっていることは嬉しいことですよね。引き続き色々な開発を期待しています。

ユカイ工学 青木さん(右)と青井さん(左

今回のインタビュー後にアメリカのCES2023に行かれた青木さん。開発されたロボットは日本だけでなく世界もターゲットとなると思います。幅広い年代に拡がるだけでなく、日本から世界中に拡がっていくプロセスもとても楽しみです。

ユカイ工学株式会社
https://www.ux-xu.com/ユカイ工学株式会社CEO

青木 俊介氏青木 俊介(あおき しゅんすけ)氏 プロフィール
東京大学在学中にチームラボを設立、CTOに就任。その後、ピクシブのCTOを務めたのち、ロボティクスベンチャー「ユカイ工学」を設立。「ロボティクスで、世界をユカイに。」というビジョンのもと、「BOCCO emo」、「Qoobo」、「甘噛みハムハム」など、家庭向けのコミュニケーションロボットを数多く手がける。2015年よりグッドデザイン賞審査委員。2021年より武蔵野美術大学教授(特任)。

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想像が創造を紡ぐユカイ工学【前編】ー ロボットの多様性を求めて ー

今回はQoobo(クーボ)やBOCCO emo(ボッコ エモ)、甘噛みハムハムなどユニークなコミュニケーションロボットを開発・提供している、ユカイ工学株式会社CEOの青木 俊介さんにお話を伺いました。

ユカイ工学 青木さんと筆者

上松:今日は色々とお話を伺いたいのですが、まずこの事業を始めたきっかけを教えてもらえますでしょうか。

青木さん(以下、青木):ユカイ工学は2007年にまず個人事業として始めた後、2011年から事業を本格的にスタートした会社です。創業メンバーは私と、チームラボ時代にアルバイトをしてもらっていた大学の後輩の二人でした。彼は今CTOを務めてくれているのですが、二人で「かわいいロボットが市場にはないよね」という話をいつもしていて、さらに「金属フレームで手が傷つくのもあるよね」などと二人で話をしていたことがきっかけとなっています。
ちなみにその彼以外にも、チームラボの当時のメンバーがいて一緒に仕事をしているんですよ。

上松:あの有名なチームラボですか。青木さんは東京大学のご出身だそうですね。仲間の方々との会話がきっかけで、このようなかわいいぬいぐるみロボットの開発に繋がるとはすごいですね。

青木:チームラボには2007年までいまして、その後2年くらいIPAの未踏プロジェクトで石黒先生に指導をしていただき、ロボットの開発を覚え始めたのがその頃でした。しかし当時、たくさん作って販売するところにまではまだまだ到達していませんでした。

上松:このような製品は今後きっとすごく拡がっていくと思います。実は10年ほど前にMITのメディアラボに行ったのですが、そこにもメタルではなくこのようなぬいぐるみタイプのロボットがたくさん置いてありました。これからはロボットも色々な形態で進化していくのだと感じました。
ところで、大学に入るまではこういったロボットに興味はあったのですか。

青木:両親が理系でしたので、私も自然とそのような方向に行ったように思います。高校は開成高校で、工学部を選びました。通学は1時間くらいかけて通っていましたね。その後、大学は工学部に進学しました。

上松:なるほど、そして大学で今はチームラボの猪子さんとお知り合いになったのですね。通学が遠くて大変でしたね。

青木:家が遠い方が色々と考えたり、妄想したりするという法則がもしかしたらあるかもしれません。昔はスマートフォンが無かったので色々と考える時間がありました。

上松:想像力って創造力にも繋がると思うので、思考することは大事なことですね。それで東京大学の繋がりでチームラボを創業されたんですね。

青木:はい、先に述べた通り2001年の創業から2007年までチームラボにいて、その後ロボットの開発を覚え始めました。最初はぬいぐるみのカッパノイドや水木しげる記念館の目玉おやじのロボットなどを作ったりしていましたが、そんな話をいただくうちにこれは仕事にできるかもと思い始め2011年から事業をスタートしました。目玉おやじで妖怪をつかまえよう、というような企画で評判にもなりました。
そもそも、最低限仕事になりそうという所からスタートしましたが、現在では『小学生ロボコン』というNHKエンタープライズ主催の大会をお手伝いさせていただくなどしています。NHK「サイエンスZERO」で放映もされました。公式キットの販売もスタートしました。

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ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(4/4)

メディアデザイン学博士を目指したきっかけ

上松:コロナ禍を一足先に体験されたんですね。どうやって切り抜けられたのでしょうか。
浅田:スポーツクラブに通って運動を続けていたことは良かったと思います。また、アスキー時代の友人の結婚式に招待され、久しぶりに東京に行ったことも立ち直るための大きなきっかけになりました。結婚式には、昔アスキーでお世話になった古川さんなど何人かが来ていて久しぶりに楽しく話をしました。
古川さんに、「今何をしているの?」と聞かれて「何もしていません」と答えたら、「今度慶應義塾大学の教授になることになったよ。KMD(慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科)という新しい大学院ができるから浅田さんも来てくださいよ。」と誘われたんです。

KMD(慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科)時代の浅田さん

上松:そういう大学院を作るタイミングだったのですね。

浅田:そうなんです。慶應設立150周年を記念して新大学院を作る直前だったのです。それで思い切ってまた受験をして、2008年より自分にとって3校目となる大学に通うことになりました。そこで私は、私の終生の代表作となった「色のめがね」や「色のシミュレータ」など、その後の人生が変わるような開発をすることになります。アスキー時代に隣の部署の長だった古川さんと再会したおかげです。
ボスの古川さんは、研究をする際に、「困っている人のために何ができるのか」をいつも考えているような人でした。SOL(Sanctity of Life, 人生の尊厳)というプロジェクトを作って、そこでは入院して学校に通えない子どもたちのための研究や、障害者のための研究などをしていました。私もそれに刺激を受け、困っている人たちのために何かやりたいと思って作ったのが、色覚異常の人たちが色を区別できるようになるアプリ「色のめがねです。また一般の色覚の人が色覚異常の人の見え方を体験できるアプリ「色のシミュレータも作りました。2010年のことです。翌年に老視や弱視など視力の低い人向けに文字を読みやすくするアプリ「明るく大きくもリリースしました。

そして、これらのアプリを作る際にとてもお世話になったのが、実は電通大時代の恩師の小林光夫先生だったのです。作りたいものが決まってもそれをどういう技術で実現したら良いのかがわからない私にアドバイスをくれたのは小林先生です。何十年かぶりに会った私の話を聞いてくれて、日本中の色覚の研究者を紹介してくれたおかげで、いろいろな先生と会って相談することができました。ご自身のアトリエで私が作業することを許してくれて、色彩学の膨大な文献がある環境で研究をすることができました。そういう基礎があって私は色覚異常の人が色を区別できるための理論を生み出すことができたのです。

小林先生と浅田さん

人間が色を見るための仕組みを理解するのには医学部時代の勉強が役に立ちました。実装は今度はKMDの人がいろいろ教えてくれました。だからこれは私が電通大、北大、慶應大の3つの大学に行ったからこそできたアプリなのです。これらのアプリは開発費の全てを自分で負担して、一人で開発し、困っている人のために無料で公開しました。古川さんの影響ですね。
これらのアプリをリリースしたところ、ユーザからいろいろな言葉をもらって感涙しました。それで、「私のことをありがたいと思ってくれる人がこんなにたくさんいる、今までやってきたことは間違いじゃなかったんだ」と心から思うことができ、その結果私は引きこもるのをやめることができたのです。当時、研究の相談に乗ってもらった砂原先生や稲見先生らに出会えたこともKMDに行って良かったことのひとつです。人のためだと思ってやっていたことなのに実は自分が一番救われました。2011年、そこで私は2つめの博士号を取りました。
上松:そう言えば、浅田さんがゴッホの絵画と色覚の関係について書かれたBlogも世界的に評判になりましたね。これについてお伺いしたいです。

浅田:はい。私の知り合いの色覚異常の方々にはゴッホの絵が好きな人が多いんです。どうしてだろう?と不思議に思ってゴッホの絵に「色のシミュレータ」で色覚シミュレーションしてみたら、なんとあの有名な「ひまわり」が飛び出して立体に見えたんです。そこでいろいろなゴッホ作品を集めて片っ端から色覚シミュレーションしてみました。すると、色覚異常の人が見ているゴッホの絵は、自然でとても格調高い素晴らしい絵に見えました。私は「実はゴッホは色覚異常の人のような色の見え方もできる人なのでは?」と思い、その仮説を記事にまとめてたくさんの画像を付けて公開したのですが、それが大きな反響になりました。世界30ヵ国くらいでその記事が紹介されて、アメリカの有名なネットテレビでもニュースとして大きく取り上げられました。
私はそれで有名になってしまいましたが、絶賛されただけではなく批判もありました。特に古くからのゴッホファンは私の仮説を許せないようで辛辣な批判を受けたりもしましたね。まあ、気にしないようにしていますが。KMDの先生たちは、「これぞKMD出身のメディアイノベータならではの活動だ!」と言って褒めてくれましたよ。

雑誌「月刊ニューメディア」でも「色のめがね」と「色のシミュレータ」が紹介された

やりたいことは何でもやってみる。それが新しい可能性を生み出す

上松:絵画鑑賞も色覚によって見え方が違うんですね。今度は博士号を取って引きこもるどころかベンチャー支援をされましたね。さらにご自身でもベンチャー経営者としてがんばっていらっしゃいますね。
浅田:自分が苦労してベンチャーを経営してきた経験があるので、若いベンチャー起業家を応援したいです。主に技術方面でいろいろなアドバイスをしたり、エンジェル投資家として投資をさせてもらったりしています。
また一昨年からは、ベンチャーの支援をするだけでは飽き足らず、自ら2つのベンチャー企業を立ち上げました。久しぶりに起業家として復活です。

浅田:ありがとうございます。視覚障がい者は明るい場所ではなんとか目が見えても、少し暗い場所では目が見えにくくなる夜盲症と呼ばれる症状を伴うことが多いのです。ViXionでは、そのような人たちのために、僅かな光しかない場所でもそれをかけると昼間の太陽の下のように明るく見えるメガネ型のデバイスMW10を開発提供しています。
障がい者のためになる技術は必ず障がいがない人のためにもなります。トレたま年間大賞を受賞したのはコードネームMWFという開発中の新商品で、さまざまな視力の人が使用でき、その人が見た場所に自動的にピントを合わせてくれる画期的な電子メガネです。皆が参加できる社会を作ることを目指してやっていきます。
またもう1つ、ハウディという会社の会長をやっています。友人と超スマート社会を実現するような会社があればいいねと話をしていたのですが、ちょうど息子が帰省している時で隣でその話を聞いていたんです。しばらくすると息子から連絡があり、その会社自分がやりたいと言ってきたので一緒にやることになりました。息子が社長で私は会長です。
皆にとって快適な画期的な街や建築物を作る会社ということで、世界で一番尊敬する建築家であるアントニ・ガウディのGaudiという文字のGを一歩進めてHにしてHaudiと名付けました。
ハウディでは、主に不動産デベロッパーや設備メーカ向けにDX化ソリューションを提供しています。住宅設備、ビル設備、建設現場、工場などをIT化する技術を持っています。環境やソーシャルインクルージョンを意識した社会実装をおこなっており、たとえば車椅子やベビーカー使用者やお年寄りなどの社会的弱者に優しいIoTドアなどを開発しています。

そして、引き続きエンジェル投資もやっています。VCなどは事業内容や事業計画を精査して投資を行いますが、私は事業よりも人だと思っています。人に投資すること。そして常に進化し続けることが好きです。

筆者と浅田さん

上松:素晴らしいですね。そんな浅田さんから何かメッセージはありますか。特にどうしたら浅田さんのようになれるのだろうと憧れる方は大勢いらっしゃると思います。
浅田:そうですね、よく「早いうちに自分の得意な分野を見つけてそれを生かすような仕事をしなさい」というアドバイスを耳にしますが、私は逆です。「得意なことを作るな」です。
人間まだやってないことがたくさんあります。やった経験があることなどほんの僅かです。なので自分が何が得意かなどわかるはずがありません。得意というのはただの思い込みだから、早いうちからひとつに拘るのではなく何でもやってみる。また、「得意とか不得意とか関係なく、やりたいことをやってしまえ!」と言いたいです。
私は人生で分野を変えて様々なことをやってきました。全部捨てて1からのやり直しになるので、大抵は最初は全くできず自分が嫌になります。でもチャレンジしているとそのうち必ずできるようになってくるんですよね。分野を変えてチャレンジすることは自分の可能性を広げることです。私は、成功してもそこに安住したくないし、何も持っていない時の自分に戻ってまた1からやったらうまくいくだろうか?と自分を試したくなるんです。
「全部捨てて1からやる。それを繰り返す。」、それが大きな結果に繋がっていくように思います。
上松:ありがとうございました。

浅田一憲さん 略歴
医学博士(北海道大学大学院医学研究科)・メディアデザイン学博士(慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科)の2つの博士号を持つ研究者・技術者・経営者。通信・暗号・医療分野に造詣が深い。起業家として、1997年に情報セキュリティのスタートアップ、株式会社オープンループを創業し、代表取締役に就任。2001年に同社を上場に導いた。社会活動として、見ることに不自由を感じる人のため「色のシミュレータ」等の視覚・色覚の補助アプリ群を開発し無償で提供。世界で200万人超に使用されている。 日本でインターネットが普及するきっかけになった大ベストセラーISDN通信機「MN128」開発者。サイバートラスト立ち上げメンバー。ViXion株式会社代表取締役社長。株式会社ハウディ取締役会長。

教育連載コラム―未来への戦略-

ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(3/4)

北海道大学 医学部 博士課程への進学

浅田:40歳過ぎて再度大学で学ぶことを決めたのは、日本の大学発ベンチャーの第1号が北海道大学医学部から出現したことがきっかけです。そのベンチャーを創業した先生と話をして、前から興味があった医学をきちんと勉強したいという気持ちになりました。それで医学部の博士課程を受験することにしたんです。上場して間もない2001年で、非常に忙しい時期だったのですが挑戦しました。

北海道大学時代の浅田さん

上松:医学部の先生との出会いがきっかけだったのですね。

浅田:受験資格の要領をよく読み、医学とは関係ないものばかりですが、自分のこれまでの実績やこれまでに出願した特許などありったけを束にして北海道大学に送りました。
たまたま北海道で自分の作った会社のオープンループが上場したタイミングだったので、私は毎日のようにメディアに取り上げられていた頃でした。なんとか受験資格を認めてもらい受験できることになりました。

本番試験には英語の医学論文を読み解くという筆記試験もしっかりありましたが、それを高得点でクリアしました。大学側は私が筆記試験で落ちると思っていたようなのですが、まさかの高得点だったので入学させるかどうか議論になったらしいです。面接してみようと言うことになり、特別に私だけに面接が課せられました。すごい重鎮の医学部の先生方がずらっと出てこられましたね。
上松:まるで映画の白い巨塔みたいな感じで緊張しそうですね。
浅田:面接にまで持ち込めばしゃべりの得意な私としてはこっちのものです。自分のアピール点は数学もできてコンピュータもできることだったので、「今の医学はいろいろな実験の結果をしっかりと数値化できていない。現象を数値データとして管理しエビデンス化することが重要だ。またコンピュータを活用すればもっと高度な解析ができるはずだ。私を入学させてくれればそれらができるようになる」みたいなちょっと生意気な言い方をしたら「ぜひ来てください」と言われて合格しました。
上松:新しい分野に果敢に挑戦されたお話はとてもワクワクします。昔、医学は医術でしかないとか、医学は科学ではないとか、いや、いや科学だとか、様々な意見がありましたね。しかしアメリカなどではかなりデータを使った進んだ医療もあって私の友人もアメリカで学んできた技術で頑張っています。日本でも最近では少しずつ自治体でデータも取るようになってきましたけれども、当時はまだまだでしたよね。
しかし入ってからさぞ大活躍だったのではないでしょうか。お仕事も辞められた時期と重なっていますよね。

浅田:ところが入ったはいいけど医学部での研究はなかなか大変だったのです。普通は医学部で6年間学んだ後で行くのが医学部博士課程です。私はその6年を飛ばしていますので、医学用語からして全然わからない。話も通じないし、他の人の研究内容も全くわからずに相当大変でした。でも知ったかぶりをするのが嫌なので周りの人にどんどんと聞くことから始めました。
上松:ある程度の年齢になってから若い人に聞くのはけっこう勇気がいりますよね。
浅田:当時はまだ女性が研究室の皆にお茶を入れる習慣があったんです。なのでその仕事を代わってもらって、いろいろ全員にお茶を配りに行き、研究室の皆と仲良くなっていろいろ教えてもらううちに段々と理解できるようになりました。そんな時に、北海道ベンチャーキャピタルからアメリカのバイオテックベイ、シリコンバレーとほぼ同じ場所です、に視察に行くので一緒に行かないか?と言う誘いがありました。

バイオテックベイのバイオベンチャーにて

早速渡米し、当時のバイオ研究の最先端の地に行きました。とあるバイオベンチャーを訪問したらおもしろい研究をやっていました。後にノーベル賞を獲ったRNAi(RNA干渉)という技術です。
「給料はいらないから私にこの仕事を手伝わせてください」と社長にお願いし、その会社を手伝わせてもらうことになりました。日本とアメリカを行ったり来たりしながら、その会社の日本支店の立ち上げなどをしました。

そして、2005年にその会社が持っていた貴重なデータを使わせてもらい、それをコンピュータと数学を駆使して解析、理論を構築して一気に博士論文を書き上げ、学位を取得しました。

博士号を取った頃の浅田さん

上松:海外では博士号を持っていると仕事がやりやすいですよね。私は博士号を持っていることでいろいろな方々とコンタクトを取ることができて海外出張ではラッキーな経験しかありません。いろいろと仕事が拡がって行くことも可能となりました。
浅田:それが自分は博士号を全然活かせていません。医学博士になったのに特に何をすることもなく家に居ました。
当時、自分が創業した会社を辞める時に散々マスコミに叩かれました。友人だと思っていた人、仲間だった人が一人ずつ私の元から離れていきひとりぼっちでした。マスコミには本当にあることないこといろいろ書かれ、それを信じる人もいて、怪文書が家に届いたりしたこともあり私は精神を病み、うつ病になりました。誰も信用できなくなりました。
なので博士号を取ったあと1年2年くらいは外出するのも嫌で家に引きこもってました。まるでちょっと前までのコロナ禍の生活のようでした。なのでコロナ禍は楽だったですね。すでに経験したことだったので。