教育連載コラム―未来への戦略-

ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(3/4)

北海道大学 医学部 博士課程への進学

浅田:40歳過ぎて再度大学で学ぶことを決めたのは、日本の大学発ベンチャーの第1号が北海道大学医学部から出現したことがきっかけです。そのベンチャーを創業した先生と話をして、前から興味があった医学をきちんと勉強したいという気持ちになりました。それで医学部の博士課程を受験することにしたんです。上場して間もない2001年で、非常に忙しい時期だったのですが挑戦しました。

北海道大学時代の浅田さん

上松:医学部の先生との出会いがきっかけだったのですね。

浅田:受験資格の要領をよく読み、医学とは関係ないものばかりですが、自分のこれまでの実績やこれまでに出願した特許などありったけを束にして北海道大学に送りました。
たまたま北海道で自分の作った会社のオープンループが上場したタイミングだったので、私は毎日のようにメディアに取り上げられていた頃でした。なんとか受験資格を認めてもらい受験できることになりました。

本番試験には英語の医学論文を読み解くという筆記試験もしっかりありましたが、それを高得点でクリアしました。大学側は私が筆記試験で落ちると思っていたようなのですが、まさかの高得点だったので入学させるかどうか議論になったらしいです。面接してみようと言うことになり、特別に私だけに面接が課せられました。すごい重鎮の医学部の先生方がずらっと出てこられましたね。
上松:まるで映画の白い巨塔みたいな感じで緊張しそうですね。
浅田:面接にまで持ち込めばしゃべりの得意な私としてはこっちのものです。自分のアピール点は数学もできてコンピュータもできることだったので、「今の医学はいろいろな実験の結果をしっかりと数値化できていない。現象を数値データとして管理しエビデンス化することが重要だ。またコンピュータを活用すればもっと高度な解析ができるはずだ。私を入学させてくれればそれらができるようになる」みたいなちょっと生意気な言い方をしたら「ぜひ来てください」と言われて合格しました。
上松:新しい分野に果敢に挑戦されたお話はとてもワクワクします。昔、医学は医術でしかないとか、医学は科学ではないとか、いや、いや科学だとか、様々な意見がありましたね。しかしアメリカなどではかなりデータを使った進んだ医療もあって私の友人もアメリカで学んできた技術で頑張っています。日本でも最近では少しずつ自治体でデータも取るようになってきましたけれども、当時はまだまだでしたよね。
しかし入ってからさぞ大活躍だったのではないでしょうか。お仕事も辞められた時期と重なっていますよね。

浅田:ところが入ったはいいけど医学部での研究はなかなか大変だったのです。普通は医学部で6年間学んだ後で行くのが医学部博士課程です。私はその6年を飛ばしていますので、医学用語からして全然わからない。話も通じないし、他の人の研究内容も全くわからずに相当大変でした。でも知ったかぶりをするのが嫌なので周りの人にどんどんと聞くことから始めました。
上松:ある程度の年齢になってから若い人に聞くのはけっこう勇気がいりますよね。
浅田:当時はまだ女性が研究室の皆にお茶を入れる習慣があったんです。なのでその仕事を代わってもらって、いろいろ全員にお茶を配りに行き、研究室の皆と仲良くなっていろいろ教えてもらううちに段々と理解できるようになりました。そんな時に、北海道ベンチャーキャピタルからアメリカのバイオテックベイ、シリコンバレーとほぼ同じ場所です、に視察に行くので一緒に行かないか?と言う誘いがありました。

バイオテックベイのバイオベンチャーにて

早速渡米し、当時のバイオ研究の最先端の地に行きました。とあるバイオベンチャーを訪問したらおもしろい研究をやっていました。後にノーベル賞を獲ったRNAi(RNA干渉)という技術です。
「給料はいらないから私にこの仕事を手伝わせてください」と社長にお願いし、その会社を手伝わせてもらうことになりました。日本とアメリカを行ったり来たりしながら、その会社の日本支店の立ち上げなどをしました。

そして、2005年にその会社が持っていた貴重なデータを使わせてもらい、それをコンピュータと数学を駆使して解析、理論を構築して一気に博士論文を書き上げ、学位を取得しました。

博士号を取った頃の浅田さん

上松:海外では博士号を持っていると仕事がやりやすいですよね。私は博士号を持っていることでいろいろな方々とコンタクトを取ることができて海外出張ではラッキーな経験しかありません。いろいろと仕事が拡がって行くことも可能となりました。
浅田:それが自分は博士号を全然活かせていません。医学博士になったのに特に何をすることもなく家に居ました。
当時、自分が創業した会社を辞める時に散々マスコミに叩かれました。友人だと思っていた人、仲間だった人が一人ずつ私の元から離れていきひとりぼっちでした。マスコミには本当にあることないこといろいろ書かれ、それを信じる人もいて、怪文書が家に届いたりしたこともあり私は精神を病み、うつ病になりました。誰も信用できなくなりました。
なので博士号を取ったあと1年2年くらいは外出するのも嫌で家に引きこもってました。まるでちょっと前までのコロナ禍の生活のようでした。なのでコロナ禍は楽だったですね。すでに経験したことだったので。

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