教育連載コラム―未来への戦略-

ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(2/4)

数学とコンピュータと通信のスキルを活かす

上松:今は大企業でもスキルベースになりつつあるので、時代が浅田さんの考え方についてきた感じですね。ご両親の反応はどうでしたか。
浅田:最初は「そんな知らない会社に行くのか?」と戸惑っていたようですが、反対はされませんでした。うちの親って意外と安定志向なんですよね。
上松:ところでアスキーって優秀な方がたくさんいらっしゃいますね。私も知り合いにアスキー出身者がたくさんいらっしゃいます。皆さん、すごい大活躍です。
浅田:起業家育成塾みたいな側面もありましたね、やる気があってとんがった人たちばかりでしたから。平均年齢が低い会社でしたが、自分たちがコンピュータ業界を動かしているんだという自負がありました。
自分はアスキーの中のハイテックラボという研究所に入ることになりましたが、そこはとても面白かったですね、当時最先端のミニコンのVAX11がなんとその部署専用にあって、それを使わせてもらいました。コンピュータグラフィックスで作った映像がテレビの番組のオープニング画面やインタラクティブゲームなどに使われるなど、最先端のことをさせてもらいました。在籍したのは1年3ヶ月くらいでしたけれども。
上松:そういう環境があるのは良いですよね。
浅田:当時BBS(パソコン通信)というのがありましたよね。通信を使ってサーバに接続し皆で掲示板でコミュニケーションするという、後に登場するインターネット上のSNSの走りです。その分野ではアメリカが進んでいたので、日本から国際電話でアメリカに繋いで毎日やっていました。電話代いくらかかっていたのだろう?
当時は、マイクロソフトの極東総代理店はアスキーの中にありました。それが隣の部署で、後にマイクロソフト日本法人の初代社長に就任する古川享さんがトップでした。マイクロソフトの仕事以外にunixの日本語化などもしていたんですが、その後、部署ごと移籍してマイクロソフト株式会社が設立されたんですよ。

古川さんと浅田さん

上松:古川さんとはお付き合いが長いのですね。
浅田:その当時は雲の上の方でしたけどね。その後、私たちのハイテックラボも同じように独立することになり、ハイテックラボ・ジャパンという会社を設立しました。その会社もとても面白かったのですが、資金不足に悩まされ、1年半くらいで辞めることになりました。
「これからどうしようか?」と思っていたら、学生時代に見学に行った2社のうちの1社、札幌のBUG(ビー・ユー・ジー)という会社を思い出しそこに連絡すると「是非来てほしい」と言ってもらって、生まれ故郷の北海道に移住して入社しました。その時にプロポーズして妻も連れて帰りました。
その会社には10年くらいいたんです。北海道大学とも繋がりが深く、アカデミックな雰囲気があり難しいことに挑戦ができる社風の会社でした。大企業からもたくさん高度な開発の仕事が舞い込みましたし、ソフトウェアだけでなくハードウェアもできるので守備範囲も広く楽しい仕事がたくさんありました。印刷所の刷版という工程をコンピュータ化するシステムがメインの事業だったのですが、私は新規事業開発を任され、印刷以外の仕事を立ち上げる役割でした。
画像系、制御系などの仕事をいろいろやりましたが、私が携わった仕事の中で一番印象深いのが、MN128シリーズというNTTと共同開発したISDNのターミナルアダプタ(TA)やルータなどの通信装置の開発です。当時日本はインターネットの普及率でアメリカや韓国などに遅れを取っていました。NTTは従来のアナログ電話回線に代わるISDNというデジタル回線の普及に力を入れていましたが、通信装置が高価すぎてなかなか広まりませんでした。そこで私の部署でMN128という当時としては劇的に安価で高性能な通信装置をNTT向けに共同開発し、ISDN普及の後押しをしました。短い開発期間で徹夜の連続。それでもなんとか作り上げて1995年の12月8日(ISDNの速度が128Kbpsなのでそれにちなんで)に秋葉原の特設会場で発売したところ大行列ができ、初期ロット数百台が僅か30分で売り切れてしまい、その日だけで数千台の予約が入りました。
結局MN128はシリーズで数百万台を売り上げ、ISDN回線が瞬く間に普及して日本は一気にインターネット普及国になったのです。
そういえばその頃、東京事務所が東京大学の正門前にあって、当時東大の一年生だった髪の長い学生アルバイトが私が作った製品のサポートなどしてくれていたのですがそれが堀江貴文さんでした。彼はそこでインターネットの可能性に気づいたらしいです(笑)。もう長い付き合いになりましたね。

もう一つ印象深いのは、サイバートラストというデジタル認証の会社を設立したことです。私の部署では、暗号などのセキュリティ技術も担当していました。まだインターネットは普及しておらず、暗号技術はほとんど注目されていない時代です。暗号技術はアメリカが一番進んでいたのですが、それは軍事技術とみなされ、国防総省は国外輸出を禁止しており、しかし商務省は国の大きな基幹技術に育てようと国外輸出を模索していた頃です。
RSAという世界初の公開鍵暗号が今後の肝となるだろうと考えた私は、RSAを何度も訪問し、まだ日本人が誰も出ていなかったRSAカンファレンスに出席したりして親交を深め、とうとう1995年に世界初のアメリカの国外に暗号技術が輸出される相手として日本のBUGが選ばれたのです。その後、セキュリティ技術の事業展開のためには認証局が必要ということでRSA社はベリサインという会社を設立します。BUGもその株主となる予定でしたが、いろいろあってそれが実現しませんでした。
代わりにカンファレンスで講演した私に声をかけてきた、当時世界6位の電話会社だったGTEと提携し、1996年に共同で立ち上げたのがサイバートラストという認証サービスの会社です。GTEは軍に暗号システムを納入しており、ノウハウを持っている会社でした。会社設立にあたって、国内30社から15億円の資本金を集めるなど奔走したのは良い思い出です。
上松:認証は今でもとても大事な分野ですよね。大学の研究会でも話題になっていました。けっこう深い世界ですよね。

浅田:セキュリティ技術は中の基本部分が暗号技術なので、数学の塊です。私は昔から数学が得意だったのでこのような技術が容易に理解できました。これをコンピュータシステムに応用するのが情報セキュリティ分野です。私が得意な数学とコンピュータと、そして通信が全部結びついたものが情報セキュリティなので、得意分野の3乗みたいなものでライバルがほとんどいませんでした。
そのようにして、とても楽しいBUG時代でした。10年もいたので自分も大きく成長できました。しかし、何をやるにしても社内に反対されたのには閉口しました。私は社外にはウケが良いのですが、社内では人気なかったんですよね。それを説得する手間が大変なことと、いろいろと自分とは関係ないトラブルなどもあって、辞める決心をしました。
ちょうど阪神淡路大震災があった何年か後の頃だったのですよね、三木谷さんが楽天を立ち上げたのとほとんど同じ理由です。「人生明日は何が起きるかわからない、だからそのうちやりたいと思っていることはいつできなくなってしまうかわからない、今やらなければ!」そう思いました。会社から家まで車で20分くらいかかるのですが、帰り道の運転途中で「明日辞めよう」と急に思い立って、翌日に辞表を提出しました。1997年のことでした。

株式会社オープンループの設立

上松:ドラマのような名シーンが浮かびますね。
浅田:辞めるにあたってお世話になってた人たちに次々と挨拶に言ったんです。そうしたら、「浅田さんが会社を始めるなら仕事を発注しますよ」、「今度これを手伝ってもらいたい」、などとあちこちから言われました。仕事ゼロからのスタートだと覚悟していましたが、たくさんの仕事がある有り難い状態で自分の会社をスタートできました。
特に驚いた出来事は、知らない人が突然事務所を訪ねてきて、出資したいと言われたことです。あなた誰?状態だったわけですが、それはIIJの札幌支店長でした。その時は断りましたが、数年後に初めて外部から投資していただく際にIIJに真っ先に投資していただきました。ありがたいことです。
上松:浅田さんの会社の名前、オープンループってかっこいいですね。
浅田:デジタルマネーの用語で点々流通のことをオープンループといいます。貨幣は例えば日銀が発行した後、誰かから誰かに点々と渡り継がれて最後にまた日銀に戻ってくる。しかしポイントなどは例えば楽天がユーザにポイントを発行して、それが使われてお店に渡って、お店からすぐに楽天に戻ってくる。それはクローズドループです。うちは点々流通ができるような高度なセキュリティ技術をきちんと作ることができる会社ですよ、という意味で名付けました。
上松:取引先には信頼されていたんでしょうね。
浅田:しばらくは鳴かず飛ばずでしたが、創業から1年くらいした時うちの技術が任天堂に採用されたんです。ゲームのカセットの偽物対策や、プリクラのようなソフトに本物のキャラクターを使う際のコンテンツの保護技術として使われるようになったのです。任天堂へのライセンスは新聞等で大きく報道されました。それがきっかけで他社へのライセンスもどんどん増えていきました。しかし、売り上げの多くはNTT研究所から受託した難易度の高いセキュリティ技術の仕事がメインでした。

オープンループのセキュリティ技術が任天堂に採用された時の様子

上松:仕事がたくさん来ても人材がなくて仕事を断ることもありますよね。
浅田:それが私は仕事を断ることができないんですよ。だから仕事が来たら全て受けます(笑)。で、それからもう必死でやってくれる人を探します。人材がいないから仕事を断るような贅沢すぎることはしません。利益率も高い仕事ですから仕事さえあればやってくれる人はいるんです。もちろん肝になる難しい部分は教えます。
上松:右肩上がりで一気に10億円以上の売り上げまで行くとはすごいですね。

オープンループ、NASDAQ Japanへ上場

浅田:創業4期目で売上10億円を達成しました。当時は研究所も研究資金に余裕があって潤沢に開発業務を発注してくれました。そしてオープンループは毎年倍々で成長を遂げて2001年3月に上場を果たしました。新聞にオープンループの記事が載らない日はないくらい話題になり、一瞬北海道銀行を抜いて北海道で時価総額3位にまでなりました。しかし、私にとって上場企業の経営はとても大変だったんです。技術者の私なのに全く開発ができなくなり、経営に専念する毎日になりました。そのうちNTTが研究開発予算を削減し、うちもその煽りを受けて受注が減り、次の展開が見えなくなってきたんですよね。会社の急成長もそこで止まってしまい、私は会社の経営を他の人に譲って退任することになりました。
上松:FIREですね。医学部に入った頃ですよね、確か。論文をたくさん書くことができたのではないでしょうか。そのいきさつを教えてもらえますか。

教育連載コラム―未来への戦略-

ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(1/4)

今回は、医学博士とメディアデザイン学博士の2つの博士号を持ち、ViXion株式会社 代表取締役社長、株式会社ハウディ 取締役会長を務める浅田一憲さんにインタビューを行った。
浅田さんは、日本でインターネットが普及するきっかけとなった大ベストセラーISDN通信機「MN128」の開発者でもある。

ダブルディグリーとは
文部科学省のサイトでは、その定義を「国内外において多様な用い方がなされている」としつつ、「ダブル・ディグリー・プログラム」は「我が国と外国の大学が、教育課程の実施や単位互換等について協議し、双方の大学がそれぞれ学位を授与するプログラム。」としている。

浅田一憲さん(TEDxにて)

小学校から大学時代まで
上松:博士号を2つも取得されいろいろな起業にチャレンジされている浅田さん、旭川でお生まれになったそうですね。私はTEDx(*1)も拝見いたしました。
大活躍の浅田さんのお子様時代のことがとても気になります。子どもの頃からプログラミングをされていらっしゃったんでしょうか。マイコンをされていたという記事を拝見しました。神童だったと想像しますが。
浅田さん(以下、浅田):そんなことはありません。ごく普通な子どもだったんですよ。小学校は特に目立ったところもない生徒だったようです。でも、中学生になってからは数学が得意でしたね。おそらく理数系が好きなんだと思います。

上松:大器晩成型なのかもしれませんね。小学校の時は平凡な自分だったけれども、やっているうちに得意分野を伸ばしていくというイメージですね。好きな先生はいらっしゃいましたか。
浅田:高校の倫理社会の先生と数学の先生はとても印象に残っています。すごく良い先生でした。
上松:どんな授業だったのですか。
浅田:倫理社会の先生は、たとえば、オーストラリアはどこにあるか、という問題を出して「日本の下です。」とか答えると叱られました。「オーストラリアの人にとっては日本の方が下だろう。なぜ私たちはオーストラリアの人たちを無視する権利があるのか?」とかって。多角的な見方が必要、他の人を慮ることが必要ということを教えてくださった先生でしたね。
数学の先生は、当時は高価だったマイコン(今でいうパソコン)をご自宅に持っていて、私は放課後に勝手に先生の部屋に入り込んでいつもマイコンを触らせてもらってました。

上松:授業は生徒が主体的に考えることができるものだったんですね。ご出身は旭川ということですが、大学までは旭川だったのでしょうか。
浅田:いいえ、旭川に住んでいたのは高校までです。北海道大学の受験に失敗し、一浪して電気通信大学に入りました。今から考えば、それがとても良かったと思います。電通大は教授陣が凄かった。東京にあるからでしょうか?実際、東大とか東工大と掛け持ちしている先生が多くいらっしゃいました。
数学者の秋山仁さんのグラフ理論の授業はとてもおもしろかったし、研究室の恩師はPascal言語やアルゴリズムの研究者として第一人者の小林光夫先生でしたが、先生とは大学時代だけでなく卒業後も含め長いお付き合いになりました。
実は私が後に色覚の研究を始め「色のめがね」というアプリを完成できたのも小林先生のおかげなんです。そのような後の人生を決める多くの出会いがあった大学時代でした。

上松:私は当時、調布の駅から歩いて行ったことがあります。街路樹沿いに歩くと広い大学があってとても雰囲気の良い大学ですよね。しかも都内にも電車で簡単にいくことができるし。
浅田:はい、新宿まで電車で20分だったので気楽にアルバイトに行くことができたんです。当時は、マイコンが世に出たばかりの時期で、私が入学したその年に日本に初めてマイコンショップができました。その店が新宿にあったんです。入学式の前に新宿を散歩していると、店の前に張り紙がしてあり、アルバイト募集と書いてありました。すぐに応募して、そこで時給500円でアルバイトをスタートしました。
そこでは日本で発売されているマイコンのほぼ全機種を置いてあり、当時最新だったPC8001などの機種を自由に使わせてもらいました。来るお客さんのほとんどが常連で、コンピュータに詳しいすごい人ばかりでした。そんなお客さんたちに可愛がられて様々なことを教えてもらいました。

大学時代の浅田さん

上松:良い環境だったんですね。
浅田:なんとそこにはセミナールームもあってプログラミング教育もやっていたんですよ。
上松:80年代のプログラミング教育ですか、興味深いです。
浅田:そこで出会った宮沢丈夫さんは上智大学の学生だったのですが、当時の有名マイコン雑誌のアスキー(ASCII)の編集者でもありました。とてもすごい人で、「自分も将来こんな人になりたいな」と思いました。
会社の顧問にもすごい人たちがたくさんいて、そういう人たちに「浅田君、うちでアルバイトしない?」と誘われていろいろな仕事をさせてもらい、いろいろな最先端の開発に関わることができたのでした。当時、まだコンピュータの開発ができる人は少なかったので、様々な大企業の電気メーカやコンピュータメーカから仕事がたくさん来たんですよ。NEC、富士通、日立、東芝、IBMなど一流どころからの仕事を全部受けました。

それはもう、たくさん仕事があったので、アルバイトを組織化することにしました。自分が代表して仕事を受注して、それらを電通大の同期や先輩や後輩20人くらいの学生に声をかけて割り振り、たくさんの仕事を回しました。私は言わばマネージャーであり元締めなので結構儲かって、3年生からは親に仕送りしてもらわなくても大丈夫になりました。そして、3年生の後期からは授業料も全額自分で払いました。卒業する頃には結構貯金もできたんですよ。この時の貯金が後に自分の会社を設立する際の資本金になりました。(笑)
上松:親孝行ですね。お父様はどんな方なのですか。
浅田:本人曰く、富良野の小学校始まって以来の優秀な児童だと言われていたらしいのですが、経済的な理由で高校(当時の旧制中学)には進学ができず学問の道を諦めたそうです。そんな経験があるので、私が一浪して大学に受かった時には父はとても喜び「息子を通じて大学に行きたいという自分の夢が叶った」と言ってくれたんです。家計が大変だったにも関わらず、一生懸命仕送りしてくれました。だから私も経済的に早く独立したいという気持ちがあったんです。
上松:とても感動しました。

大企業には興味がなかった学生時代

浅田:そんなアルバイト時代を通じて、大企業で働くのは面白くないなと思うようになってしまったんですよね。多くの大企業と仕事をしていて感じたのは、歯車の一部の仕事しかできないな、大学生ができるようなことさえこの人たちはできないのだな、ということです。今考えると一部しか見てなかったのだと思います。
上松:大企業はスキルではなく総合力で採る感じですよね。私も大学時代はアルバイトでけっこう稼いでいたのですが、卒業してすぐに高校の教員になったら手取り10万くらいでがっかりした記憶がありました。3歳から習っていたピアノのスキルがあったからです。当時バブルに向かう頃でレストランなどでもニーズはありました。
浅田:自分はコンピュータのスキルがありアルゴリズムなども得意だったので、大企業ではなく、それらが活かせるベンチャーで就職先を探していました。でも就職活動はほとんどせず、北海道と東京の会社を1社ずつ合計2社だけは見学に行きましたが決め手に欠け、「どうしようかな?」と思っている時に宮沢さんに「アスキーに来ないか?」と誘われたんです。

*1 参考動画
Color Vision and Human Diversity: Kazunori Asada at TEDxSapporo
Seeing colors, Knowing you better: Kazunori Asada at TEDxKids@Chiyoda
Dive in! Nothing ventured, nothing gained | Kazunori Asada | TEDxSapporo

教育連載コラム―未来への戦略-

教育にコンピュータサイエンスを【後編】ーすべての子どもにリーチする、スイッチエデュケーション ー

後編では小室真紀さん(博士)のインタビューをお届けします。小室さんは株式会社スイッチサイエンスの子会社、株式会社スイッチエデュケーションの社長を務めていらっしゃいます。

博士号の取得とその価値

上松:ご出身はどちらですか。
小室さん(以下、小室):愛媛県出身です。夏目漱石が有名で、みかん(紅マドンナ)がとても美味しいところに育ちました。数学や物理が好きでしたが、電子工作はしたことがないし、プログラミングをしたこともありませんでした。
父は高校の数学の先生で進路を担当していました。父と今後どんな学部が良いか一緒に見ていて、高校2年生の時、プログラミングができる所ということで父に勧められた中からお茶の水女子大学を選びました。やっぱりコンピュータに関わる仕事をしたかったというのもありまして。
上松:お茶の水女子大学ではどんな研究をされていたんですか。
小室:お茶の水女子大では情報科学を専攻し、ヒューマンコンピュータインタラクション、ユビキタスなど、どちらかというとコンピュータを見えにくくしてより人間の生活を豊かにするような研究をしました。モチベーションが高かったので、研究はとても楽しかったですよ。
在学していた時に博士号を取った人たちで集まると、博士号は努力賞をもらうということじゃないかな、という話をしたりします。研究分野を俯瞰して見る目を養い、文章も書けるようにならないといけないし、英語もできるようにならないと海外に行けません。さらに研究計画書を書く力や、データを見る力をいくつもつける必要がありました。その点は良かったです。

株式会社スイッチエデュケーション 代表取締役社長 小室真紀さん

上松:何か他に良い点ありましたか。
小室:博士の3年生の時、大手の通信会社の人が研究発表をしていたのですが、学部卒の人は相手にしてもらえないということがありました。やっぱり博士号がいるなと思いました。
上松:そうですね、海外の取り引き先もそうでしょう。博士号を持っている社長って日本と比べてすごく多いですよね。日本は博士号でお給料が高くなるといったことが無いので変だな、と思っています。小中高の教員でも教育学の博士号を持っていてもお給料は変わらないですから。

貧困や格差に関係なく、才能のある子どもたちに教育を届けたい

上松:アルバイト先のスイッチサイエンスには博士号を取った後で就職されたんですよね。その後、スイッチエデュケーションの社長となられたんですよね。
小室:スイッチエデュケーションを立ち上げた時に思ったことは、恵まれた子たちがコンピューターサイエンスに簡単にアクセスできる一方、そうでない子も増えてくるのかな、ということです。地方在住の子とかですね。そういう子でも、実際にやってみると好きになってくる子もいると思うんですよ。
お金があって能力もあるという環境にいる子どもたちは問題ないのですが、お金がなくて能力があるケースは課題ですよね。貧困、親の格差に関係なく、特別な才能のある子どもにリーチできなければならないと思っています。

上松:貧困の問題は国が解決して欲しいですよね。
小室:あと、お金はあるけどなかなかプログラミングにリーチできてない子どもたちにもアクセスして、次の1歩を踏み出せないかと思うんですよ。だから公教育に入れていきたいというのがスタートでした。
上松:素晴らしいことですね。学校関係はまだなかなかですよね。
小室:学校に簡単に導入できないという難しさがあります。やはり道徳と英語が特別に頑張っている感じで、なかなかプログラミングまではたどり着けません。でもなんとか教育でやりたいと思っていたんですよね。子育てを通して、親の行動に子供が反応するのが面白かったです。なおさら教育をやりたいと思っています。
上松:教育の中にも徐々にマイクロビットを含めた機材や環境が整い始めてきましたが、今実施されているのはICTの導入がメインですよね。海外ですと数学のテストは紙と鉛筆で行わないとか、先進国では黒板とチョークがここ10年以上無いというケースもあります。そこから見たら少しずつは進んできましたが、海外で訪問した高校では100%、1人1台ずつ端末を配布されていましたし、各教室にプロジェクターの設備がありました。高校はパソコン必携が先進国の条件です。

小室:はい、だからそこから一歩進んでプログラミングをさせるということが大事だと思うんですよね。局所的なことかもですが岐阜の大垣市や秋田などでやっているのでお手伝いをしていきたいですし、教室とか塾なども運営していきたいです。

上松:他にも何かやりたいことはありますか。
小室:ライフワークとしてワークショップをしていきたいですね。
上松:私もスノーピークの社外取締役として役員になっていますが、特に小室さんは理系の男性の多い分野ですよね。何か女性で執行役員として参加して思うことはありますか。
小室:私は女子大出身なので女性のコミュニティにいることが多かったのですが、女性だけのコミュニティだと、その場を穏やかに収めるために各個人が少しずつ我慢するということが多かったように思います。結果として衝突が起きにくかったと思いますね。特に問題が起きた時、女性には視点の違う観点があると感じることもありました。
上松:女性だけで運営しているところもありますね。他には何かありますか。
小室:教育にもっとリソースをかけて欲しいですね。人も時間もお金も。
上松:私も百聞は一見にしかずで、日本人を海外へ連れて行くような機会があれば良いなと思っているんです。他にも一緒に何かやれたら良いですね。今日はありがとうございました!

筆者と小室真紀さん

株式会社スイッチエデュケーション
https://switch-education.com/
小室真紀(こむろまき)氏 プロフィール
株式会社スイッチエデュケーション代表取締役社長、博士(理学)。
2012年、株式会社スイッチサイエンスに入社し、専門家でない人でもテクノロジーを楽しめる世界を作ることを目標にマーケティングや広報活動に従事。出産を期に対象を子供や教育に広げて活動する中で、教育向けマイコンボードであるmicro:bitと出会う。2017年5月に株式会社スイッチエデュケーションを設立し、社長に就任。同8月にmicro:bitの日本ローンチを担当し、国内正規販売代理店としての活動を開始。micro:bitを使ったプログラミング教育の普及活動を行っている。

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教育にコンピュータサイエンスを【前編】ー 科学を灯す、スイッチサイエンス ー

今回は株式会社スイッチサイエンス社長、金本茂さんのインタビューを行った。
なおスイッチサイエンス執行役員でもあり、スイッチサイエンスの100%子会社である株式会社スイッチエデュケーションの社長、小室真紀さんにもインタビューを行った。こちらは後編に紹介したい。

電子工作に触れた学生時代

上松:スイッチサイエンスは興味深い色々な教材を様々な学習の場に提供している会社ですよね。私の友人もプログラミング教材を実際に購入して製作しています。
スイッチサイエンスを起業されたきっかけについて、さかのぼってお伺いしたいと思っています。

金本さん(以下、金本):教材にはイギリスやイタリアから輸入したものもあります。ネットで注文するだけでなく、実際に海外の取引先を訪問して輸入を決めるということもしています。

上松:そのような事業をスタートされたきっかけは何だったのでしょう。金本さんのご出身は確か八王子ですよね。

金本:はい、八王子出身です。八王子はとても良い町ではあるけれども当時はあまり何もなくてつまらなかったんですよね、最近は色々できて賑やかになってきたけれども。

上松:立川はその当時、基地があったり、当時は珍しかったマクドナルドが出来たりと賑やかでしたが、八王子は立川より遠いので行ったことがありませんでした。しかし私は日野の実践女子大学に数年通っていましたし、今では大学がたくさんある学園都市で百貨店もできてとても発展しましたね。

金本:はい、今はそうですね。当時、小学校の時に両親のすすめもあって麻布中学校を受験し、高校卒業まで通っていました。中学校受験のために国立にある塾にも通いました。

上松:それはすごい距離の通学でしたね。中学校で八王子から麻布までってすごいですよね。

金本:距離があるのでね。新宿からは地下鉄で通学していました。朝は5時50分くらいに家を出ていました。母親は朝起きて6年間お弁当を作ってくれたんです。本当に親に感謝です。

上松:それは素敵ですね。

株式会社スイッチサイエンス 代表取締役社長 金本茂さん

金本:麻布中学校では課外の部活があって、電子工作のクラブがありました。先生は何も教えてくれなかったけれど、先輩が何でも教えてくれました。先輩にはアナログシンセサイザーの回路を設計できるような人もいたんです。
小学校の頃からこういう世界に興味があり、それまでは見よう見まねで雑誌に載っているものを作っていました。高校2年生で受験のためクラブ活動は終わり、部室には行くけれどもクラブには参加しない、ということもしていました。結構のんびりした学校でしたね。
上松:これはすごいレベルの高い環境ですよ。金本さんの原点はそこですね。
金本:今思えば大変レベルが高かったですね。シンセサイザーのモーグ博士が来日した際に無理やり訪問して自作の回路図を見てもらったら、モーグ博士が感心して秘密の回路図を見せてくれたというエピソードもあります。NECのビッグローブの社長を務めた方もいらっしゃった。
そのクラブの1個上の先輩がスイッチサイエンスの役員をしてくれて、3つ上の先輩は顧問をしてくださっています。
上松:ご縁でしたね。
金本:その後、早稲田大学理工学部に入りました。今にして思えば学術の大事さはわかりますが、当時は全然それがわからなかったので実学に興味がありました。

高くなかった、起業へのハードル

上松:ソフトウェアが好きだったんですね。
金本:当時の技術は今振り返ってみると、初歩的で「可愛い世界」だと思います。今のスマホの10分の1の性能でも「高性能だ」といって使っていたんですからね。
大学時代にアルバイトした先は、麻布の先輩、うちの会社の顧問をしている方が千葉大在学中に起業したところでした。当時の自分は仕事をすればお金がもらえるとばかり思っており、特に会社のしくみは全然わかっていませんでした。ただ仕事をすれば1時間いくらでお金が湧いてくるくらいに思っていました。当時の先輩は資金繰りや色々な苦労をしていたのでしょうけれど、近くにいてもそれが全然わからなかったので、自分でもできるのかなと軽く考えていました。
就職した会社では、好きでもない営業をわざわざ頼み込んでやらせてもらいました。電話の受話器は左手で取るということも、請求書の書き方も、この会社で教わりました。
その後、個人事業主としてソフトウェア開発業をするようになり、それを会社にしました。1992年、30年前です。
上松:それはスイッチサイエンスのスタートですね。30年祝いをしないと。
金本:もう過ぎちゃったんですよ。1992年にソフトウェアの会社として起業し、プログラムを作ったり、当時作られ始めていたワークステーションなどのサーバーを使ったりなどして色々やっていました。
上松:スキルが生きていますね。
金本:X Windowを移植する仕事もしました。大学系の研究所のサーバーのお守りをしてくれという依頼もありました。国立遺伝学研究所では、サーバーのお守りの他、LANの敷設もやらせてもらいました。
上松:そこで教材を作るという流れになるのですね。

電子工作ができるマイコンボード「アルデュイーノ」の輸入販売

金本:あるときネットで「アルデュイーノ」をみつけました。アルデュイーノが欲しくなったのですが、イタリアから1個だけ買うのでは送料が高いので、少し多めに買って欲しい人に分ける事にしました。買った分が売り切れたらおしまいにするくらいのつもりだったのですが、どんどん売れてしまい、半年後には自宅近所に小さなオフィスを借りて、知人を雇うようになりました。
上松:イタリアっていうのは知っていますが、どうもイタリアってそういうイメージではないですよね。

金本:オリベッティもありますよね。昔は北イタリアで大きな工場を持っていて、その周辺に製造業などがあったそうです。
上松:しかし北と南ってイメージ違いますよね、イタリアは。
金本:トリノ空港から行くイブレアという町で、オリベッティの工場もあるんですよ。スイスやフランスも近いですよね。山の麓という感じで川もあります。
上松:そこで開発されたのがアルデュイーノなんですね。そこで買ったんですね。
金本:当初からずっとメールだけでやりとりしていたのですが、2年弱経ってようやく現地を訪問しました。アルデュイーノ通りというのがあるんです。その地域に大昔にいた王様の名前なんだそうです。勇敢な王みたいな意味だったかな、その地域では有名な王様です。
通りの突き当たりにはアルデュイーノ通りの名前を冠したカフェがあって、アルデュイーノはここで生まれたのだそうです。イブレアには、オリベッティが設立したインタラクションデザインの研究所(Interaction Design Institute Ivrea)が当時存在し、この研究所の先生たちが研究をやりやすくするツールとして作られました。インタラクションデザインの研究なので、何らかの装置の動きを提案するんですが、それまでダンボール紙等でモックを作っても、動きは言葉で説明するしかなかったのだそうです。そのモックに、ボタンを押したらここが光るというような動きを加えるのがアルデュイーノなんです。

上松:多くの分野の方が関わるのって大事ですよね。まさにそれが実現したのがアルデュイーノなんですね!
なぜ、それを発見されたんですか。

金本:偶然なんですよね。子供のころに好きだった電子工作は、いまはどうなってるんだろうという興味で検索したときに見つけました。電子工作の世界はがらりと変わり、ハンダゴテを引っ張り出して来なくてもたくさんの事ができるようになっているのに感動しました。趣味的に試しに買ってみるはずが、想像を超えたニーズがありました。
この輸入販売には、本業とは別に持っていた休眠状態の会社を使ったのですが、その後この事業を株式会社スイッチサイエンスとして独立させ、さらに本業のグループ会社に入れるという事をして、今に至ります。

上松:私も当時、世界の中で小学生の使うプログラミング教材をたくさん見てきたので、それを日本で大量に販売すれば会社を作れるようになると、今、感じました。もう遅いですね。
しかし1人では無理ですよね。どうやって協力者を見つけられたのでしょうか。

金本:人が先なんですよ。お金ではなく。

株式会社スイッチサイエンス 代表取締役社長 金本茂さん

上松:格言ですね。それは確か松下幸之助の言葉にありました。「お金ではなく、人を追え」みたいな感じだったような。
金本:自分が精一杯やっていれば集まってくる人がいて、呼び込んで一緒にやろうという流れができる。そのうち、この人とこの事業をやろうといって新規事業を作ることにもなりますね。
上松:ニーズはこれからもどんどんありますよね。
金本:1つは単純な電子工作、プログラミングとは違う分野でも、誰かの役に立てる部分があると思っています。たとえば、量子コンピュータの時代に必要なもの、教育に使えるものを届けていきたいです。
最近、うちの社員が見つけてきた製品で、パソコンサイズの量子コンピュータがあります。たったの2キュービット(量子ビット)なので、何の役にも立たないけれど、本当に量子計算をやって4通りの結果の確率を出してくれます。こういった製品も輸入販売したいと考えています。
上松:ちなみに貴社は東京ビッグサイトで見たように女性の社員の割合がしっかりあって、子会社のスイッチエデュケーションの社長である小室真紀さんも素晴らしいですね。
小室さんは最初アルバイトで大学院時代にスイッチサイエンスに入られた方で、アルデュイーノの発音についてYouTubeで配信されていました。次は小室社長にインタビューいたします。

株式会社スイッチサイエンス
URL: https://info.switch-science.com/
金本茂(かねもとしげる)氏 プロフィール
1966年生まれ。元電子工作少年。早稲田大学理工学部を卒業後、ソフトウェア技術者として会社勤務、フリーランスを経て、1992年にソフトウェア開発会社を設立。2008年、Arduinoによって電子工作の魅力を再発見し、輸入販売のためにスイッチサイエンスを創業。電子回路モジュールの設計製造、輸出入、小売および卸売に従事。現、株式会社144Lab代表取締役社長、株式会社スイッチサイエンス代表取締役社長、株式会社スイッチエデュケーション代表取締役会長。micro:bit IDEの国際化、日本語化に貢献した。

教育連載コラム―未来への戦略-

モバイル投薬デバイス「atDose」のパーパス【後編】

モバイル投薬デバイス「atDose」の開発秘話に関するインタビュー、後編をお送りする。
前編では、アットドウス株式会社代表取締役である中村秀剛さんのこれまでの生い立ちや社会人になってからについてインタビューした。

上松:先週、たまたまKBICへ量子コンピュータの見学のために訪問したばかりです。ここは都心からアクセスが良いですね。モバイル投薬デバイスは、本コラムの題であるモバイル教育事情と同じく「モバイル」が共通語で、とても気になっていたのです。今回はお話を伺う機会ができてとても嬉しいです。専門が教育ですのでその観点からもお話を伺うことができたらと思っています。

上松:前編は中小企業診断士を取得されるまでのお話を伺いました。後半は「アットドウス株式会社」を起業されたいきさつについてもお伺いしたいと思います。
中村:私は中小企業診断士の試験が苦手で、1次試験は何とかクリアできたのですが、2次試験に2度失敗してしまいました。そうすると通常は1次試験からのやり直しになるのですが、それを回避するための手段が大学院が用意している中小企業診断士養成課程に通うことなんです。
当時は勉強仲間が2次試験に合格して中小企業診断士として活躍しているのを見聞きしながら、遠回りな人生になってしまったことに落ち込んだ時期もありました。しかしながら、大学院での2年間の出会いがきっかけになり、監査法人トーマツとご縁をいただき、資格取得後に転職することができました。
監査法人トーマツでは、監査や上場支援だけでなく、起業家支援・ベンチャー支援にも携わることができました。想いを持った起業家や経営者とのやりとりはとても刺激的でした。相手は人生をかけて彼らの事業に取り組んでいる中で、生半可な知識や意識では火傷してしまいます。彼らの想いに応えるために少しでも役に立ちたいと情報を得たり社内で詳しい人に相談したり、自分自身も考え抜いてその結果をぶつけてきました。
起業のきっかけになったのは、そのような活動の中でたまたま出会いがあったスタートアップの社長です。1年間の伴走支援の中で様々なことを話しました。自分たちが何のために生きているのか、世の中に何を提供できるのか、共に考え、提案し、行動する中で、私自身も自分の人生のオーナーとして何かに取り組みたいと決意し、2017年9月1日横浜市にてアットドウス株式会社を立ち上げたんです。
上松:やりたいことや目標があって初めてスキルを身につける。まさに今の時代に相応しい教育プロセスのスタイルだと思います。そもそも社会に出て役に立つか立たないかもわからない勉強を強いられて、学歴のためだけに好きでもない学習に時間を割き、その後に就職しようということもこれまでは少なくない状況です。しかし、今後は会社側がスキルベースで採用するということになると、こういった学習スタイルでは対応が厳しくなりますよね。
中村:私が取り組んだテーマは、新たな医療機器を開発して医療現場で使ってもらうというビジネスです。創めてから改めて実感したのは、投資家から見たら一番お金が集まりにくい領域でした。今まで、モノづくりやIT活用は経験していましたが、医療業界の経験もない中で、日々、勉強しながら経営してきた5年間でした。でも、成し遂げたい目的があってそのために身につけるべきスキルがあるのであれば、やってやれないことは無いと思って取り組んでいます。
勉強のための勉強は苦手ですが、今は日々、自分のできることが広がっていることを実感しますし、どんどんやりたいことが増えています。
そもそも、このテーマに取り組むきっかけは、両親による自宅介護の現場を目の当たりにしたことが原体験になっています。7年前に祖父、昨年祖母が自宅で息を引き取るということがありました。また、息子が1歳の時に義父が癌で他界して、20年ほど入退院を繰り返して、最後は全身に転移し会話もできなかったんです。このような医療現場の課題をものづくりやITで解決できることがあるのではないかと漠然と考えていた時に、アットドウスと出会いました。運命と感じました。残りの生涯のテーマで患者のQOLの向上と家族の負担軽減に取り組もうと思ったんです。
上松:すごいですね。それは誰もができることではないと思います。
中村:私たちは創業してから、様々なビジネスコンテストに参加させていただきました。私たちの想いだけでは実現できる仕事ではないため、自治体や支援団体の力を借りて、志を同じくする仲間を増やすことが一番の目的です。昨年は、かながわビジネスオーディション2022で県知事賞を受賞しました。黒岩知事はその後のラジオ番組でも当社のデバイスを自らの言葉で紹介してくださり、心強く感じています。
上松:ここまでとはすごいですね。ちなみに「atDose」とはどのような意味の言葉でしょうか。
中村:attoとは10のマイナス18乗で超微量という意味があり、atは局所をねらってという意味、Doseは投薬を表す言葉です。つまり超微量に局所に投薬するという意味の造語です。
上松:なるほど。会社がここまで成長した背景に、中村さんの大変な頑張りがあったように思います。
どういったところがこのような結果をもたらしたのでしょうか。

中村:私は社会人になってから、モノづくり、システム開発、経営支援といった業界で活動してきました。それぞれの人生の岐路では迷いもありましたが、結果的には1度しかない人生なのだから自分にしかできないこと、ワクワクできる事に取り組みたいという想いで決断してきました。5年前に起業を決意した時には、これまでの経験がすべてこの事業に取り組むための準備期間であったのではないかと気づいたんです。
簡単に結果が出るビジネスではありませんが、残り20年の人生をかけて諦めずに取り組めば必ず結果が出せるはずであると信じています。そう思えるテーマに出会えたことに感謝します。自分のミッションを実現することが、自分がこの時代・この国で生を受けたことの目的であると確信しています。

上松:これは知識や経験が共通項としてありますが、キャリアやスキルを築く上で参考になる人は多いと思います。このキャリアこそが今に繋がるスキルになると思いました。自分の目標を叶えたい時にたまたま強みがあったわけではなく、着々と社会に出てからも学び続けてスキルを向上されて行った結果なのではと思います。素晴らしいことです。
ところでこの投薬デバイスは小さいですね。普通は点滴の場合、液体パックから投薬しますよね。私は盲腸の手術の時に初めて点滴をしたんですが、その昔はガラス瓶だったと聞きました。

中村:そうなんです。電気浸透流は19世紀初めにロシアの物理学者が発見したんですが、長年にわたり、実現には至らなかったものなのです。

高濃度の薬液を体内に入れると浸透圧により細胞が壊死してしまうのでは、と思われるかもしれませんが、超微量に投薬すれば安全面でも問題がないことがラットの実験で確認できました。これから、医師・研究者と共に医療現場で活用できるデバイスとして完成させるスケジュールを立てています。


紹介ビデオがこちらです。

実現したいのは医療を受ける側中心の医療です。
新たな治療手段の獲得や手術後の身体の負担軽減、在宅や通院治療が可能ですし、ライフスタイルに合わせた治療ができます。
将来的には医療プラットフォームを築いていきたいです。

上松:ここまで来るためのプロセスも含めてとても勉強になりました。ありがとうございました。

筆者と中村秀剛さん

教育連載コラム―未来への戦略-

モバイル投薬デバイス「atDose」のパーパス【前編】

今回は超微量かつ局所に投薬できるモバイル投薬デバイス「atDose」の開発製造販売を行う、アットドウス株式会社代表取締役の中村秀剛さんにインタビューを行った。
中村さんは川崎市にある「かわさき新産業創造センター(KBIC:ケービック)」で「atDose」の開発や製造販売を行っている。KBICは川崎市がベンチャー企業や企業の新分野進出の支援を目的として整備したインキュベーション施設であり、KBIC本館とクリーンルーム棟を備え、IBMの量子コンピュータがあるNANOBIC(ナノビック)、かわさき新産業創造センターの計画の最終施設としての「産学交流・研究開発施設」AIRBIC(エアビック)がオープンしている。
筆者はインタビューの一週間前にNANOBICにて、日本に1台、世界でもアメリカとドイツと日本にしかないという量子コンピュータを見学させていただき、そして今回は中村氏の居るKBICにてお話を伺うことができた。

上松:先週、たまたまKBICへ量子コンピュータの見学のために訪問したばかりです。ここは都心からアクセスが良いですね。モバイル投薬デバイスは、本コラムの題であるモバイル教育事情と同じく「モバイル」が共通語で、とても気になっていたのです。今回はお話を伺う機会ができてとても嬉しいです。専門が教育ですのでその観点からもお話を伺うことができたらと思っています。

モバイル投薬の注射器

中村秀剛氏(以下:中村):わざわざお越し頂きましてありがとうございます。おっしゃる通り、ここは都内からも横浜からもアクセスが良い所ですね。
教育という観点では、子ども時代はけっこう父親が厳しくて大変でした。ファミコンなどのゲームなどは絶対にやらせてもらえませんでしたし、高校生の時は門限が6時だったんですよ。

上松:それは厳しいですね。

中村:父は体育系で大変でした。体育会系の弟と違って私は母親の血をひいて楽器演奏に興味があったのでちょっと引いていました。とにかく家から出たくて神奈川の大学に行ったという感じです。

上松:どっちかというと大人しいタイプだったのでしょうか。

中村:そうですね。ただその家庭環境で良いこともありました。ファミコンができなかったのでとにかく自分でプログラミングをしようと思ったことと、大学に行くにはお金を貯めなくてはと思いマクドナルドでアルバイトをしたことです。そこでのコミュニケーションスキルがとても興味深かったんです。
私は職場が家から近かったので夜間シフトに入っていました。知らない人に「スマイルプリーズ」と言われると、笑顔で応えなければなりません。指導していたマネージャーが優しく教えてくれて、自分の殻を取っ払ってもらったように思います。
そしてもっと興味深かったのは、ハンバーガーを作る工程がプログラミングのような流れだったことですね。無駄もないですし。

上松:工程がフローチャートみたいな感じですよね、私も以前からそう思っていました。

アットドウス株式会社 代表取締役 中村秀剛さん

中村:その後、新潟から神奈川に来て一人暮らしになり、初めてパソコンを手に入れました。また、大学のサークル活動として管弦楽団に所属しました。振り返れば一生で一番楽器に触れていたと思います。毎日最低でも3時間は楽器を吹いていました。
就職活動では、将来新潟に帰りたいという意思がありましたので、川崎と新潟に工場を持っている会社に就職しました。ちょうどWindows95が発売されて、製造業でもネットワークやコンピューターを本格的に使う時代だったんです。そのため、社長と一緒に社内のITインフラを構築したり、ちょっとしたプログラムを作って現場に使ってもらったりしていました。そうすると、だんだんと工場の現場でモノづくりをするよりもそれを支えるITで現場の役に立つ方がやりがいがあるし自分のスキルを活かせるってことに気づいたんですよ。それで、システム開発の会社に転職しました。
転職活動をしていたら、海外の音楽ツールを日本で販売するプロジェクトが立ち上がるところで、この仕事だったら音楽とプログラミングの両方を活かして活躍できると期待して転職しました。でも、気楽な気持ちで転職したのですが、趣味でプログラミングをすることと仕事で大きなシステムを開発することは大きな違いがあります。有難いことに、上司が厳しく指導してくださり、システム工学を勉強して情報処理技術者の資格を取得しました。ハードウェア・ソフトウェア・ピープルウェアという考えを理解し始めたのもその頃です。
システムの仕様を決める事も大切ですが、それ以前に、業務を理解してシステムのグランドデザインを決める事が重要であり、ビジネスのこと、人間の振る舞いやデザイン工学にも興味がどんどん広がってきました。自分のスキルを高める事、自分の仕事の幅が広がること、大変でしたが充実した日々を重ねてこれたことに感謝します。
上松:こうしてお話を伺うとお父様の教育方針で、今のプログラミングの世界へ向かったのかもしれないですね。音楽の素養があってそういった世界が広がることも素晴らしいですね。
他にどんなことをされたのですか。

中村:実は2002年くらいから電子投票システムの開発なんかもしていたんですよ。どのような技術を使って、何を作って、どのように販売するかということを考えるようになりました。他にもITを使った業務改善や効率化を考えるということをしました。それらをやっている中で会社の経営というものに目が行き、中小企業診断士の資格を取ったんです。
上松:すごいですね。普通はweb周りを扱うだけですが、会社の業務改善の中までしっかり見ようという気持ちが素晴らしいですね。

後編に続きます。

教育連載コラム―未来への戦略-

グリーンエネルギー社会をデザインするPowerX(パワーエックス)【後編】-アイデアを現実化する次世代エネルギーカンパニーとは-

次世代型エネルギーカンパニーを目指す株式会社パワーエックス(以下、PowerX)代表取締役、伊藤正裕氏へのインタビュー後編です。

自然エネルギーの爆発的な普及を実現したい

上松:原発は稼働していない場所も多いですし稼働に反対する声も多いので、たいていは火力発電所で作られた電気を電線で運ぶとか、最近は台風の被害なども考えて地下ケーブルにして地中化するという所も出てきていますよね。
伊藤:下記の写真はPowerXの蓄電池組立工場「Power Base」の建設を計画している岡山県玉野市の様子です。2023年に工場生産を開始し、2025年には船であちこちに運ぶことを予定しています。

伊藤:これは世界的建築家妹島和世氏の設計なんです。妹島さんは、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞を受賞した「金沢 21 世紀美術館」やルーヴル美術館の 別館「ルーヴル・ランス」等、国内外に様々な建築物を手掛ける世界的建築家です。

上松:面積もとても広いですね。

伊藤:正直、株式会社スノーピークの広大な本社、ヘッドクォーターズ キャンプフィールドもヒントの1つになりました。

上松:スノーピークの本社、ヘッドクォータはとても広いですよね。岡山県玉野市は瀬戸内で波も穏やかで風光明媚なイメージがあります。それは楽しみですね。
どんどん量産して日本のエネルギーをクリーンにして、できれば100%自給できたら良いですね、有事があっても安心です。

株式会社パワーエックス本社で筆者のインタビューに答える 取締役兼代表執行役社長CEO の伊藤正裕氏

伊藤:これからは日本だけでなく世界中のスケールで考えています。欧州などはもちろんですが、他にもアジアなどニーズはあると思います。
上松:地球のためにということですね。2025年までにぜひ訪問させて頂きたいです、楽しみにしています。ありがとうございました。

完成イメージ図(パワーエックスwebサイトより引用)

更新されるべきエネルギーについての知識

インタビュー後に筆者が思ったことは、エネルギーをとりまくテクノロジーは急速に進化を遂げている、ということである。これからは、テクノロジーを取り巻く背景や社会のデザイン、仕組みも見ていくことが大事であると思った。その視点から見ると、電気を取り巻く未来の社会について小学校時代からもっと学んだり考えたりする必要があると思う。自分たちの未来のことであり、他人事では済まされないからだ。
イギリスでは1995年に小学校の教科としてICT(Information and Communication Technology)教育が入っている。そして2014年にはその教科をやめコンピューティングという授業が始まった。教科書を見ると小学校3年生でGPS(Global Positioning System)を学ぶという内容であった。
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イギリスの教科「コンピューティング」におけるプログラミング教育|上松恵理子のモバイル教育事情
Townley Grammar校の様子 小学生が見学することもあるプログラミングの授業
日本ではプログラミング教育が必修化されたが、そもそもなぜプログラミング教育が必要なのか、社会のシステムはどうデジタル化されているのか、海外のICT教育はどうなっているのかについての授業はない。
また、車なども含めMaaS(マース:Mobility as a Service)だけでなく今であればXaaS(X as a Service)などIoTを通じたクラウド概念について学ぶ事もない。
とにかく時代に合った学習へと更新されることが海外の小学校では少なくない。コロナについてディスカッションしたクラスも少なくなかった。
ちなみに、日本の準天頂衛星システム「みちびき」はGPSよりも精度が高い。「みちびき」について学ぶことは重要なことである。教科書検定制度の縛りがあることも一因と思うが、数年前の知識を暗記するばかりでは少なくとも先進国の教育ではない。
海外では年間200校ほどの学校視察を行ったこともある筆者だが、保護者が児童を送り迎えする時間帯に学校に居ることもよくあった。シアトルのSt.Thomas Schoolという小学校に視察に行った時には、テスラをはじめとする電気自動車の普及率が高いことに驚いた。

中国の北京大学で招待講演した時にも、自転車にスマートフォンをかざしていつでも乗ることができ、好きな場所に乗り捨てることができるサブスクの自転車レンタルシステムに驚いたが、もっと驚いたことはバイクがほぼ私が見た限り100%電動バイクだったことである。海外も電気にシフトしていることを実感した。
今回のPowerXに関するインタビューでは、電気自動車の分野だけでなく、これからの日本社会の未来をデザインし着実に進めているというところに感動した。

株式会社パワーエックス (PowerX, Inc.)
URL:https://power-x.jp/ja/
取締役兼代表執行役社長 CEO 伊藤 正裕氏 プロフィール
2000年株式会社ヤッパを創業。2014年M&Aにより株式会社ZOZOに入り、ZOZOテクノロジーズの代表取締役CEOを経て、2019年株式会社ZOZOの取締役兼COOに就任し、「ZOZOSUIT」、「ZOZOMAT」、「ZOZOGLASS」など数多くの新規プロダクトの開発を担当し、ZOZOグループのイノベーションとテクノロジーを牽引。2021年3月に株式会社パワーエックスを設立。
プレスリリース
⾃然エネルギーの爆発的普及を実現する「株式会社パワーエックス」バッテリー型EV超急速充電器「Hypercharger」と定置用蓄電池「Mega Power」の先行受注開始
株式会社パワーエックス オフィス

撮影:淺川敏 @satoshi asakawa

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グリーンエネルギー社会をデザインするPowerX(パワーエックス)【前編】-アイデアを現実化する次世代エネルギーカンパニーとは-

近年電気自動車の利用が進んでいるが、今後の普及に向けた課題として急速充電できるスペースが圧倒的に少ないことが挙げられている。電気自動車で遠出をした際の充電が急速でなく、また、スペースが1~2カ所しかなく先客が居た場合、いったい到着まで何時間かかるのだろうと気が遠くなってしまう。
実際に、筆者が電気自動車に乗って遠出をした際も「帰りまで電気が持つかな」と心配になった。例えばガソリンが無くなったとしても、その場でJAFなどに連絡してガソリンを入れてもらえば直ぐに解決する。しかし電気の場合、すぐに解決できるのか、解決まで何時間かかるのかと気になった。
車だけでなくこれから社会は脱炭素に向け大きくシフトするだろう。地球温暖化の被害をみれば、待った無しの状況である。
そのような中、まずは日本において自然エネルギーを「流通」というシステムにのせ解決しようという会社が現れた。
株式会社パワーエックス(以下、PowerX)である。
PowerXは車の課題だけでなく、脱炭素時代が進んだその先にあるグリーンエネルギー社会における次世代型のエネルギーカンパニーを目指している。次世代の「つくる、ためる、運ぶ」の全てをデザインし、蓄電がもたらす新しいエネルギーグリッドを構築して送電メソッドをクリエイトしている。
今回はこのPowerXの代表取締役である伊藤正裕氏に単独インタビューを行い、未来のスマート社会を牽引する会社のパーパスを伺うことができた。

株式会社パワーエックス本社で筆者のインタビューに答える 取締役兼代表執行役社長CEO の伊藤正裕氏

まずは固定概念を取っ払うことが未来のクリエイトに繋がる

上松:日本の発電方法は今、これまで私が小学校から勉強してきたように火力発電や水力発電、そして原子力発電や少ないけれども地熱発電等々さまざまな種類がありますよね。
伊藤正裕氏(以下、伊藤):これからは待った無しでクリーンな再生可能エネルギーを使う必要がありますね。ただし、再生可能エネルギーはあちこちに偏在しています。
上松:そうですね、それってもったいないですよね。
伊藤:はい。また、偏在する再生可能エネルギーはそのまま使えないという課題があります。例えば九州地方で風力や太陽光でたくさん発電できたとして、東北地方に需要があったとしてもニーズに応じてすぐには運ぶことはできません。
上松:そうですね、これまでは効率良く輸送コストを抑えるため、現地の太陽光発電で出来た電気をそのまま運ぶのではなく、電気分解して水素にしてその水素を運ぶとか、アンモニアなどの化学物質に変換して運ぶという方法が計画されていると思います。しかし水素に変えるときにロスは出ますし、水素やアンモニアは現地のプラントでさらに圧縮ガスか液化ガスにする工程も必要です。水素はそもそも、かなり冷やしたり圧力をかけたりしなければならないので大変ですよね。
伊藤:そうなんです。ですから電気をそのままニーズのあるところに運ぶことを考えています。
上松:なるほど、それが一番シンプルですよね。そのまま電池を運んで行き、さっと繋いで使えるというのは夢の世界のように思います。しかし大型の蓄電ならばかなり貯められそうですが、九州から東北となると大変そうです。また、リアルタイムでどこに電気がたくさんあってどこで電気を必要としているのかは可視化できませんね。
伊藤:そうですね。まずはそのまま化学物質に変換しないで運ぶことと、大型の蓄電池という2つの固定概念を変えました。

上松:普通はあきらめてしまいます、だって、そんな再生エネルギーでできた電気をあちこちに運ぶなんて。大型の蓄電池は高性能なイメージがありますが小型にしたらパワーが落ちるのではないでしょうか。
伊藤:それがレゴのように組み合わせて、現地に必要なだけのニーズに合わせて大きさを変えられるんですよ。
上松:レゴのように組み合わせるっていう発想がすごいですね。大きな車に積むようなバッテリーか携帯のような軽いリチウム電池か、という固定概念で考えてしまっていました。
伊藤:送配電業ではなく蓄電業に参入し、蓄電に特化した未来グリッドの構築を考えています。そして電気運搬船というビジョン実現のために2つのプロジェクトを進めています。
上松:2つのプロジェクトとはどのようなものでしょうか。
伊藤:下記の図のように蓄電池と電気運搬船の2つです。

上松:すごい発想ですね。再生可能エネルギーの大幅導入のために固定概念を取っ払ったアイデア、素晴らしいと思います。テクノロジーの発想とアイデアで解決できることもあると実感しました。
伊藤:もう2025年には運搬船も完成し稼働予定です。遠距離運搬も可能です。
上松:海底ケーブルとかありますよね。
伊藤:ケーブルの場所に頼らず、海に接する場所ならどこにでも電気を輸送できますし、設置や稼働開始までの時間が実は海底ケーブルよりも短くできるんです。
上松:それは良いですね。海底ケーブルを作るとなると距離に応じてコストも相当かかりそうですしね。
伊藤:初期導入コストも安価ですし、売電やグリッドへの放電タイミングも選択可能なんです。なにより災害時に強いです。
上松:パワーエックス社の取り組みは再生可能エネルギーの課題解決だけでなく、災害にも効力を発揮出来る点が素晴らしいですね。日本は災害も多いですし大地震でケーブルが切れてしまったら困りますから。
しかしかっこいいですね。この運搬船。

ただ運ぶだけでなく、クラウドでデータを保存しその結果として柔軟に運用できるところも良いですね。日本の各発電所はそういった点で、もし供給ベースで共有がわかったとしてもリアルタイムでの需要のニーズはフレキシブルに捉えられていないと思っています。
伊藤:クラウドベースでニーズに応じた充放電ができることで2次利用、3次利用も可能となります。

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ワーケーションの聖地「CAWAZ」の取り組み【後編】~地元の自然を活かした教育・福祉への貢献

埼玉県日高市にあるコワーキングスペース「CAWAZ」のインタビューです。

後編では取締役の中島健雄さんも交えてインタビューさせていただきました。


リカレント教育でこれまでのスキルが繋がった

上松:今やWeb3.0の時代ですし知識を更新する必要がありますよね。北川さんも、地域貢献の一環として早速プログラミング教育を実践されたんですね。
北川さん(以下、北川):はい。土地勘の有る場所でスタートしようと思い、最初はここの隣の古民家でプログラミング教室をしていました。ある時ここが売りに出されると聞いて、守りたいと思ったことも理由のひとつです。協力者もいました。

上松:中島さんはどうしてこのCAWAZの地に惹かれたんでしょう。
中島さん(以下、中島):子どもの頃に巾着田に川遊びに来ていて、元々この辺はよく知っていました。都内に近いわりに自然と歴史がある土地です。大人になってからも自転車に乗りに来て、よくこの辺を走っていたのですが、ある時脇道に逸れて里山の集落の道を行くと、森の中に素敵な古民家があったのです。
これが2012年くらいで、今のCAWAZを建てた土地との出会いですね。
上松:CAWAZのそばに何か渋沢栄一の立て札もありましたね。
中島:渋沢栄一が地元を出て都内に向かった道と言われているのがここです。北川さんとは2017年に当時のCAWAZの仲間が開催したイベントで知り合いました。地域の事や共通のドメインであるITの話をしているうちに、北川さんの地域や教育の課題に対するメッセージが自然に伝わってきました。それは、公的な補助金をもとにした街づくりには持続性がない、ソーシャルベンチャーとしてビジネスを回しながら地域の経済や文化に貢献するというもので、まさに渋沢栄一の合本主義に通じるものでした。彼の周りに集まってきた地域の若い仲間の繋がりもよかったので、ここでしかできない何かができると思いましたね。

CAWAZの隣にある、渋沢栄一の歩いた道

上松:中島さんは以前ソフトバンクにいらっしゃって、中島さんが事務局長を勤めていたBBA(ブロードバンド推進協議会)では私も教育ICTの研究員をさせていただきました。
中島:自分はソフトバンクで地域のICT化推進みたいなことをやっていて、日本各地にIT技術やベンチャー企業の橋渡しをしていたんです。ITは地域課題の解決や街づくりのツールとして有効と考えられますが、そうした活動はいずれも東京からの視点でした。次は地域側の視点で街づくりや地域課題の解決に入ってみたいと考えていたんです。
ソフトバンクを退社するのと前後して、この高麗地区が気に入って2拠点居住を始めました。知らない街に知り合いが増えていくのが楽しくて、自然と街づくり活動にも参加するようになりました。東京育ちで転勤もしたことがないのでとても新鮮でした。
上松:北川さんとタッグを組んで、すごいことが起こりそうですね。

ソフトバンクのBBA(ブロードバンド推進協議会)のモバイルブロードバンドフォーラムで筆者はICT教育WGリーダーとして研究会を開催。こちらは第1回でICT政策の現状から民間のICT教育事例、ディスカッションを行っている様子

年齢を超えてダイバーシティの観点で繋がる

北川:中島さんは色々な業界の人を紹介してくれたんです。しかし日本の企業をみると海外の働き方に比べて非合理的、非生産的で自分たちで決めたルールで働いているという感覚がありました。白いシャツでスーツが制服みたいで変だな、と思ったこともあります。
今、実現しているワーケーションはコロナ前からの構想だったんです。地元の観光や資源に付加価値をつけて発信することは大事だと思います。この町の有るべき姿を活かして教育福祉に貢献するのが自分の最終目標です。
中島:私自身ソフトバンクを退社してから大学院に行き、まさにリカレント教育を実践したんです。50歳半ばを過ぎた学生生活は新鮮で楽しかったですね。

中島さん、リカレント教育のため明治大学大学院へ入学した際の様子

研究内容はソフトバンク時代の出来事を振り返るもので、会社も自分も無我夢中で滅茶苦茶なことをやってきた期間を理論的に整理することができました。また、自分の子どもと同年代の学友とのディスカッションも楽しかったです。今までの会社組織や社会の関係性から離れ、新たな価値観を得ることができました。そのタイミングでCAWAZの起業にジョインして、若い北川さんと事業をできたのはタイミングが良かったです。

上松:リカレント教育は受けて次に活かすことだけでなく、人生の振り返りも大事ですね。

中島: リカレントは再教育的に捉えられていますが、振り返りがあるからこそ次につながると思います。実践から学びへのフィードバックもあるし新たな働き方もそこから生まれます。
私は働くこと、学ぶこと、遊ぶことの3つが切り離されるのではなく連続面にあるべきと考えてます。
昔から、「中島さんは遊んでるのか仕事しているのかよくわからない」といわれますが(笑)、あまり線引きせず好きな場所、好きな時間に働く、その中に遊びの要素を見出してきました。
ITは時間と空間を超越するツールで、テレワークやコワーキングはそれを具現化したものです。まさにCAWAZのコンセプト。遊びの中から働きが生まれ、働きも遊びとして楽しめる。働きや遊びを高めるための学びがある。北川さんのいうCAWAZの最終目標の地域教育とはそうあるべきだと思うし、私にとってCAWAZは、その最終目標に向けた「働く、遊ぶ、学ぶ」場所のプロトタイプだと思っています。

上松:CAWAZで得たものは他に何がありますか。
中島:若い人たちと一緒に同じ目線でやる。これは楽しいです。リカレント教育に関連する話ですが、なかなか定年退職後の起業って難しいでしょう。ビジネスのアイデアや知識があっても起業に必要な気力と体力は衰えます。CAWAZは自分がやりたかったことでもありながら、自分の力ではできないことでもあった。店舗は北川さんや若い人たちで回してますが、みんなと同じ目線を持ちながら、自分の年齢や経験を生かした存在として関係を持っています。
上松:確かにそうですね。
中島:北川さんによると私は「CAWAZのペルソナ」なんです。つまり働く遊ぶ場所として自らCAWAZを使い、CAWAZを作っていく。実は日本ワーケーション協会ワーケーションコンシェルジュなる肩書もあるのですが、ワーケーション実践者としてCAWAZのファシリティやサービスを立てつけています。
また、これは当初からアイデアにあったのですが、最近CAWAZサポーターというボランティア組織が動き出してきました。CAWAZのコンセプトやファシリティを気に入ってくれた社会人や学生が、CAWAZを中核とした街づくりを進めようとしています。参加者は、近隣の人に加え、テレワークを契機に都心から移住してきた人や、都市計画を研究する学生など様々で、周辺の観光、自然観察活動、森林の保護など様々なテーマで活動を計画しています。
ソーシャルビジネスとしてのCAWAZの事業とこれらの街づくり活動がどこかのタイミングで融合することで、次の段階に進めると思っています。
上松:素晴らしい目標ですね。これからの日本の社会に一石を投じる視点がたくさんありました。ありがとうございました。

中島 健雄 氏 プロフィール
東京都文京区生まれ。システムエンジニアを経て2000年よりソフトバンクのグループ会社で動画配信、コミュニティサービスの新規事業を担当。ソフトバンクの通信事業参入後はソフトバンク株式会社の渉外部門に所属、業界団体事務局長を務め、ICT利活用促進、地域情報化、スタートアップ支援事業に関わる。ソフトバンク退職後、家業の製薬会社経営の傍ら明治大学大学院にリカレント進学。ブロードバンド・イノベーション研究(経営学修士) 2016年より東京都文京区と埼玉県日高市高麗に2拠点居住しテレワークで仕事をしながら趣味のマウンテンバイクで遊ぶ。2021年取締役として株式会社CAWAZに参画、2022年から物流企業のCIOとしてDXの推進中。 日本ワーケーション協会認定ワーケションコンシェルジェ。同協会のワーケーションペルソナでは「仕事とプライベートの境目が曖昧で自由な働き方をする多趣味シニア経営者」に分類され、場所を選ばず「働く、遊ぶ、学ぶ」を実践中。
参考サイト
https://cawaz.co.jp/

教育連載コラム―未来への戦略-

ワーケーションの聖地「CAWAZ」の取り組み【前編】~地元の自然を活かした教育・福祉への貢献

埼玉県日高市にある「CAWAZ」は、快適な寛ぎのカフェも併設された働く場としてのコワーキングスペースで、観光や文化活動に向けたイベントスペースを統合した施設です。

都心からたった1時間で素敵な川沿いの異空間に没入し、仕事だけでなく川遊びなどができるまさにワーケーションの聖地のような場所ですが、経営者の北川大樹さんは「ワーケーションという言葉を借りただけ」と述べています。
今回はそんなCAWAZをどのようにしてオープンさせたのかについてインタビューさせて頂きました。

海外から見て地元の良さを理解

上松:ここは樹木も多く木々が大きいですね。また、竹林も圧倒されます。川沿いにカフェとコワーキングスペースがあって水遊びもできる最高な場所ですね。
まず、ここにCAWAZを作ったきっかけを教えてもらえますか。
北川さん(以下、北川):埼玉県日高市は私の地元で、ここは子どもの頃からの遊び場所でした。しかし周りの木がどんどん切り倒されてしまい、なんとかここの自然を守りたいと思ったことがきっかけでした。
上松:すごい地元愛ですね。
北川:いえいえ、子どもの頃は当たり前にあるものだったので、たまには都内に行って遊びたいとか、仕事もアルバイトも無く退屈な田舎だな、と思っていました。けれど海外に出て、色々な文化に触れることで改めて客観的に地元を見られるようになり、「なんだ、意外といいじゃん」ということを理解したんですよね。
上松:それはわかります。私も地元の新潟にいる時には、お正月に羽子板で羽根つきしたいな、なんで新潟は雪が降るのかな、と思っていたんですが、改めて地元のすごさに気がつく感覚はありますね。
ちなみにオランダに行かれたそうですが、何かきっかけがあったんでしょうか。

北川:オランダだけでなく高校卒業してから世界中、おそらく40カ国以上はバックパッカーで回ったんですよ。
上松:すごいですね。どの辺りですか?
北川:オランダ以外だと、行った国はドイツ、イギリス、イタリア、ポーランド、チェコ、スイス、クロアチア、フィンランド、デンマーク。中でも気に入って長期滞在したのは南米ですね。
上松:すごいですね。

オランダの大学で受けたシティマーケティングの授業

上松:オランダという国を選んだのはどういった理由でしょうか。
北川:オランダには留学で行ったんですが、当時オランダはOECDの調査で子供の幸福度が世界一高かったんです。さらにドラッグや売春、安楽死が合法で、九州ほどの国土で農作物の輸出高は世界第2位でした。
とにかく実験的な国民性であるオランダは、日本と大きく違う価値観によって社会が回っている感じがして興味をそそられ、この国で勉強したい、と思うようになりました。

上松:勉強したいと思って大学に入るのが一番だと思います。それは良かったですね。
色々な授業を受講したと思いますが言葉は大丈夫でしたか。授業はどんな感じだったのでしょうか。
北川:全て英語です。オランダは欧州の中で英語が最も使われている国の一つです。その中で興味があった授業はシティマーケティングの授業です。
上松:どんな授業なんですか。
北川:シティマーケティングの授業はカルチャー(文化)と地域を合わせて実学的に学ぶことのできる授業でした。アムステルダム南西にある町を観光でどう活かすか、ということがコンセプトです。
パリとオランダとチームを作ってプレゼンテーションをするという面白いコースで、授業の発表のためにスペインなどにも行きました。そして自分たちのアイデアがグランプリを取ったんです。
上松:すごい実学的な授業ですね。
北川:社会に出てからこの内容をどう行かせるかという視点が持てましたし、リベラルアーツ的なものをどう社会に還元するかを考えました。

幼少時代の貧困経験から、同じ境遇の人の役に立ちたいと思った

上松:誰もがそのような大学の授業を受けられるということはないですよね。
北川:もともと自分は勉強が嫌いだったんです。友達は多かったけれども、学校の後の学童の場所が素晴らしかった。おしおきで「学童に来てはダメ」と言われるくらい学童が好きでした。
当時は、学校の勉強がどう社会で生きるのか、人のためになるのかが全くイメージできなかったし、学ぶ意味について答えてくれる大人がいなかったんですが、ちゃんと目的を見つけてから学ぶと本当に楽しいですね。
上松:学童が素晴らしいというのは良い経験でしたね。
北川:はい、母子家庭で家が貧しかった。これが自分の人生を形作っていると思っています。自立心が強い母親だったので、苦境の中でも外に助けを求められずにいました。頑張りすぎて倒れたことも何回も見ていました。母はずっと福祉系の仕事をしていて、子供ながらに本当に社会にとって求められている仕事をしているんだな、と感じていました。
しかし真に人のためになる仕事ほどお給料や社会的地位が低いのはなんでだろう、という不公平感と違和感を感じていて、経済的な貧困という状況と相まって不平等な社会というのを痛烈に原体験として感じてきました。
上松:そうだったんですね。
北川:貧困というのは、それを頑張って克服することはできるけれども、過去は消えずに必ず残ると思っています。よく、貧困を体験すると知的好奇心がない、という人がいますが、貧困を体験しない立場でそんなことを言うことは難しいと思います。とても根が深いものだと自分は思っています。
上松:貧困でなかったらしたかったこともあったのに諦めたということなんですね。
北川:はい。音楽の専門学校に行きたかったので、そのためだけに高校に仕方なく行って進学しようと思ったら、卒業までで奨学金が500万にもなるというのを知って、これはすごいリスクだなと思いました。
それで高校卒業してバックパッカーをしているうちに、自分は実は学ぶことが好きなんだ、ということに気づけたので、身の丈にあった進路を選択していった形になります。
上松:勉強は嫌いだけど大卒の肩書きを得たいという人も多いですよね。
北川:その子たちを一概に責めることはできないとは思います。小中高大の線路から脱線するとはぐれてしまい、あたかも高速道路の中で自分が立っているような疎外感を感じてしまって、それを回避する方策として大学に行くみたいな感じなのでしょう。
上松:そうですね、日本は横並びで企業も大卒を求めていますしね。
北川:世の中に貢献できる人材になりたいがため教育を望んでいるのに、その機会は借金を背負わないと得られない、ということの壁にぶちあたり自分の無力を感じたんですよね。
本当は一度大学を卒業して、海外で出会った彼らに貢献できるようになってから再び海外に行こうと思ったんですけど、働きながら大学に行き学んだこと、世界のどこに根を張って活動していくのかと考えたときに地元に戻るというのが一番必然性の高い選択だと感じました。

ITが大事だと気がつき、プログラミング教育を地元でスタート

上松:その成果の還元がCAWAZですね。
北川:自分が社会に出てから必要になって勉強をスタートし大学に来たので、学ぶモチベーションは大きいです。先生の話を一言一言聞き漏らすまいと思う。自分が払った分以上の価値を得ようと思いました。ドイツはギャップイヤー(1年間)があるので、18、19、20才で世界を見ました。日本もギャップイヤーの制度を義務化した方が良いと思いました。
上松:プログラミング教育を地元でスタートしたきっかけはどんなことだったのでしょうか。
北川:一人一人の生産性を高めるためにITが大事だな、と思ったことが第一です。あとは、既存の学校を変えるということも考えたのですが、そうではなく、別次元で教育をやりたいとも思いました。なぜならシンギュラリティなどAIを勉強する中でビットコインが出てきて、ブロックチェーンの可能性を感じて興味を持ったためです。DAO(ダオ:Decentralized Autonomous Organization=自律分散型組織)のコンセプトが大事だと思って、そこでテック系の勉強を始めたことがきっかけですね。ITはすごいツールだなと思ってプログラミング教育を始めました。
色々な北川さんの経験が語られていて興味深い内容でした。
後編では立ち上げのきっかけともなった共同経営者の中島さんのインタビューをご紹介します。

北川 大樹 氏 プロフィール
【職務略歴】途上国支援NGO、国内NPO支援団体、IT企業、VC、留学代理店の立ち上げ、介護系ベンチャーの創業、ITコンサル、教育事業等を経験。
【趣味・特技】旅、音楽、英語、スぺイン語
【現職】株式会社CAWAZ 代表取締役/株式会社プラスロボ 取締役/株式会社AirSynapse 取締役
・高校卒業後バックパッカーとして40か国以上を旅する
・30歳を控え内省の旅として徒歩で北海道を目指す
・3社の設立に関わり、資金調達度総額は約1億

参考サイト
https://cawaz.co.jp/