教育連載コラム―未来への戦略-

ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(1/4)

今回は、医学博士とメディアデザイン学博士の2つの博士号を持ち、ViXion株式会社 代表取締役社長、株式会社ハウディ 取締役会長を務める浅田一憲さんにインタビューを行った。
浅田さんは、日本でインターネットが普及するきっかけとなった大ベストセラーISDN通信機「MN128」の開発者でもある。

ダブルディグリーとは
文部科学省のサイトでは、その定義を「国内外において多様な用い方がなされている」としつつ、「ダブル・ディグリー・プログラム」は「我が国と外国の大学が、教育課程の実施や単位互換等について協議し、双方の大学がそれぞれ学位を授与するプログラム。」としている。

浅田一憲さん(TEDxにて)

小学校から大学時代まで
上松:博士号を2つも取得されいろいろな起業にチャレンジされている浅田さん、旭川でお生まれになったそうですね。私はTEDx(*1)も拝見いたしました。
大活躍の浅田さんのお子様時代のことがとても気になります。子どもの頃からプログラミングをされていらっしゃったんでしょうか。マイコンをされていたという記事を拝見しました。神童だったと想像しますが。
浅田さん(以下、浅田):そんなことはありません。ごく普通な子どもだったんですよ。小学校は特に目立ったところもない生徒だったようです。でも、中学生になってからは数学が得意でしたね。おそらく理数系が好きなんだと思います。

上松:大器晩成型なのかもしれませんね。小学校の時は平凡な自分だったけれども、やっているうちに得意分野を伸ばしていくというイメージですね。好きな先生はいらっしゃいましたか。
浅田:高校の倫理社会の先生と数学の先生はとても印象に残っています。すごく良い先生でした。
上松:どんな授業だったのですか。
浅田:倫理社会の先生は、たとえば、オーストラリアはどこにあるか、という問題を出して「日本の下です。」とか答えると叱られました。「オーストラリアの人にとっては日本の方が下だろう。なぜ私たちはオーストラリアの人たちを無視する権利があるのか?」とかって。多角的な見方が必要、他の人を慮ることが必要ということを教えてくださった先生でしたね。
数学の先生は、当時は高価だったマイコン(今でいうパソコン)をご自宅に持っていて、私は放課後に勝手に先生の部屋に入り込んでいつもマイコンを触らせてもらってました。

上松:授業は生徒が主体的に考えることができるものだったんですね。ご出身は旭川ということですが、大学までは旭川だったのでしょうか。
浅田:いいえ、旭川に住んでいたのは高校までです。北海道大学の受験に失敗し、一浪して電気通信大学に入りました。今から考えば、それがとても良かったと思います。電通大は教授陣が凄かった。東京にあるからでしょうか?実際、東大とか東工大と掛け持ちしている先生が多くいらっしゃいました。
数学者の秋山仁さんのグラフ理論の授業はとてもおもしろかったし、研究室の恩師はPascal言語やアルゴリズムの研究者として第一人者の小林光夫先生でしたが、先生とは大学時代だけでなく卒業後も含め長いお付き合いになりました。
実は私が後に色覚の研究を始め「色のめがね」というアプリを完成できたのも小林先生のおかげなんです。そのような後の人生を決める多くの出会いがあった大学時代でした。

上松:私は当時、調布の駅から歩いて行ったことがあります。街路樹沿いに歩くと広い大学があってとても雰囲気の良い大学ですよね。しかも都内にも電車で簡単にいくことができるし。
浅田:はい、新宿まで電車で20分だったので気楽にアルバイトに行くことができたんです。当時は、マイコンが世に出たばかりの時期で、私が入学したその年に日本に初めてマイコンショップができました。その店が新宿にあったんです。入学式の前に新宿を散歩していると、店の前に張り紙がしてあり、アルバイト募集と書いてありました。すぐに応募して、そこで時給500円でアルバイトをスタートしました。
そこでは日本で発売されているマイコンのほぼ全機種を置いてあり、当時最新だったPC8001などの機種を自由に使わせてもらいました。来るお客さんのほとんどが常連で、コンピュータに詳しいすごい人ばかりでした。そんなお客さんたちに可愛がられて様々なことを教えてもらいました。

大学時代の浅田さん

上松:良い環境だったんですね。
浅田:なんとそこにはセミナールームもあってプログラミング教育もやっていたんですよ。
上松:80年代のプログラミング教育ですか、興味深いです。
浅田:そこで出会った宮沢丈夫さんは上智大学の学生だったのですが、当時の有名マイコン雑誌のアスキー(ASCII)の編集者でもありました。とてもすごい人で、「自分も将来こんな人になりたいな」と思いました。
会社の顧問にもすごい人たちがたくさんいて、そういう人たちに「浅田君、うちでアルバイトしない?」と誘われていろいろな仕事をさせてもらい、いろいろな最先端の開発に関わることができたのでした。当時、まだコンピュータの開発ができる人は少なかったので、様々な大企業の電気メーカやコンピュータメーカから仕事がたくさん来たんですよ。NEC、富士通、日立、東芝、IBMなど一流どころからの仕事を全部受けました。

それはもう、たくさん仕事があったので、アルバイトを組織化することにしました。自分が代表して仕事を受注して、それらを電通大の同期や先輩や後輩20人くらいの学生に声をかけて割り振り、たくさんの仕事を回しました。私は言わばマネージャーであり元締めなので結構儲かって、3年生からは親に仕送りしてもらわなくても大丈夫になりました。そして、3年生の後期からは授業料も全額自分で払いました。卒業する頃には結構貯金もできたんですよ。この時の貯金が後に自分の会社を設立する際の資本金になりました。(笑)
上松:親孝行ですね。お父様はどんな方なのですか。
浅田:本人曰く、富良野の小学校始まって以来の優秀な児童だと言われていたらしいのですが、経済的な理由で高校(当時の旧制中学)には進学ができず学問の道を諦めたそうです。そんな経験があるので、私が一浪して大学に受かった時には父はとても喜び「息子を通じて大学に行きたいという自分の夢が叶った」と言ってくれたんです。家計が大変だったにも関わらず、一生懸命仕送りしてくれました。だから私も経済的に早く独立したいという気持ちがあったんです。
上松:とても感動しました。

大企業には興味がなかった学生時代

浅田:そんなアルバイト時代を通じて、大企業で働くのは面白くないなと思うようになってしまったんですよね。多くの大企業と仕事をしていて感じたのは、歯車の一部の仕事しかできないな、大学生ができるようなことさえこの人たちはできないのだな、ということです。今考えると一部しか見てなかったのだと思います。
上松:大企業はスキルではなく総合力で採る感じですよね。私も大学時代はアルバイトでけっこう稼いでいたのですが、卒業してすぐに高校の教員になったら手取り10万くらいでがっかりした記憶がありました。3歳から習っていたピアノのスキルがあったからです。当時バブルに向かう頃でレストランなどでもニーズはありました。
浅田:自分はコンピュータのスキルがありアルゴリズムなども得意だったので、大企業ではなく、それらが活かせるベンチャーで就職先を探していました。でも就職活動はほとんどせず、北海道と東京の会社を1社ずつ合計2社だけは見学に行きましたが決め手に欠け、「どうしようかな?」と思っている時に宮沢さんに「アスキーに来ないか?」と誘われたんです。

*1 参考動画
Color Vision and Human Diversity: Kazunori Asada at TEDxSapporo
Seeing colors, Knowing you better: Kazunori Asada at TEDxKids@Chiyoda
Dive in! Nothing ventured, nothing gained | Kazunori Asada | TEDxSapporo