教育連載コラム―未来への戦略-

ダブルディグリー時代のスタートアップ ~浅田一憲さんインタビュー(2/4)

数学とコンピュータと通信のスキルを活かす

上松:今は大企業でもスキルベースになりつつあるので、時代が浅田さんの考え方についてきた感じですね。ご両親の反応はどうでしたか。
浅田:最初は「そんな知らない会社に行くのか?」と戸惑っていたようですが、反対はされませんでした。うちの親って意外と安定志向なんですよね。
上松:ところでアスキーって優秀な方がたくさんいらっしゃいますね。私も知り合いにアスキー出身者がたくさんいらっしゃいます。皆さん、すごい大活躍です。
浅田:起業家育成塾みたいな側面もありましたね、やる気があってとんがった人たちばかりでしたから。平均年齢が低い会社でしたが、自分たちがコンピュータ業界を動かしているんだという自負がありました。
自分はアスキーの中のハイテックラボという研究所に入ることになりましたが、そこはとても面白かったですね、当時最先端のミニコンのVAX11がなんとその部署専用にあって、それを使わせてもらいました。コンピュータグラフィックスで作った映像がテレビの番組のオープニング画面やインタラクティブゲームなどに使われるなど、最先端のことをさせてもらいました。在籍したのは1年3ヶ月くらいでしたけれども。
上松:そういう環境があるのは良いですよね。
浅田:当時BBS(パソコン通信)というのがありましたよね。通信を使ってサーバに接続し皆で掲示板でコミュニケーションするという、後に登場するインターネット上のSNSの走りです。その分野ではアメリカが進んでいたので、日本から国際電話でアメリカに繋いで毎日やっていました。電話代いくらかかっていたのだろう?
当時は、マイクロソフトの極東総代理店はアスキーの中にありました。それが隣の部署で、後にマイクロソフト日本法人の初代社長に就任する古川享さんがトップでした。マイクロソフトの仕事以外にunixの日本語化などもしていたんですが、その後、部署ごと移籍してマイクロソフト株式会社が設立されたんですよ。

古川さんと浅田さん

上松:古川さんとはお付き合いが長いのですね。
浅田:その当時は雲の上の方でしたけどね。その後、私たちのハイテックラボも同じように独立することになり、ハイテックラボ・ジャパンという会社を設立しました。その会社もとても面白かったのですが、資金不足に悩まされ、1年半くらいで辞めることになりました。
「これからどうしようか?」と思っていたら、学生時代に見学に行った2社のうちの1社、札幌のBUG(ビー・ユー・ジー)という会社を思い出しそこに連絡すると「是非来てほしい」と言ってもらって、生まれ故郷の北海道に移住して入社しました。その時にプロポーズして妻も連れて帰りました。
その会社には10年くらいいたんです。北海道大学とも繋がりが深く、アカデミックな雰囲気があり難しいことに挑戦ができる社風の会社でした。大企業からもたくさん高度な開発の仕事が舞い込みましたし、ソフトウェアだけでなくハードウェアもできるので守備範囲も広く楽しい仕事がたくさんありました。印刷所の刷版という工程をコンピュータ化するシステムがメインの事業だったのですが、私は新規事業開発を任され、印刷以外の仕事を立ち上げる役割でした。
画像系、制御系などの仕事をいろいろやりましたが、私が携わった仕事の中で一番印象深いのが、MN128シリーズというNTTと共同開発したISDNのターミナルアダプタ(TA)やルータなどの通信装置の開発です。当時日本はインターネットの普及率でアメリカや韓国などに遅れを取っていました。NTTは従来のアナログ電話回線に代わるISDNというデジタル回線の普及に力を入れていましたが、通信装置が高価すぎてなかなか広まりませんでした。そこで私の部署でMN128という当時としては劇的に安価で高性能な通信装置をNTT向けに共同開発し、ISDN普及の後押しをしました。短い開発期間で徹夜の連続。それでもなんとか作り上げて1995年の12月8日(ISDNの速度が128Kbpsなのでそれにちなんで)に秋葉原の特設会場で発売したところ大行列ができ、初期ロット数百台が僅か30分で売り切れてしまい、その日だけで数千台の予約が入りました。
結局MN128はシリーズで数百万台を売り上げ、ISDN回線が瞬く間に普及して日本は一気にインターネット普及国になったのです。
そういえばその頃、東京事務所が東京大学の正門前にあって、当時東大の一年生だった髪の長い学生アルバイトが私が作った製品のサポートなどしてくれていたのですがそれが堀江貴文さんでした。彼はそこでインターネットの可能性に気づいたらしいです(笑)。もう長い付き合いになりましたね。

もう一つ印象深いのは、サイバートラストというデジタル認証の会社を設立したことです。私の部署では、暗号などのセキュリティ技術も担当していました。まだインターネットは普及しておらず、暗号技術はほとんど注目されていない時代です。暗号技術はアメリカが一番進んでいたのですが、それは軍事技術とみなされ、国防総省は国外輸出を禁止しており、しかし商務省は国の大きな基幹技術に育てようと国外輸出を模索していた頃です。
RSAという世界初の公開鍵暗号が今後の肝となるだろうと考えた私は、RSAを何度も訪問し、まだ日本人が誰も出ていなかったRSAカンファレンスに出席したりして親交を深め、とうとう1995年に世界初のアメリカの国外に暗号技術が輸出される相手として日本のBUGが選ばれたのです。その後、セキュリティ技術の事業展開のためには認証局が必要ということでRSA社はベリサインという会社を設立します。BUGもその株主となる予定でしたが、いろいろあってそれが実現しませんでした。
代わりにカンファレンスで講演した私に声をかけてきた、当時世界6位の電話会社だったGTEと提携し、1996年に共同で立ち上げたのがサイバートラストという認証サービスの会社です。GTEは軍に暗号システムを納入しており、ノウハウを持っている会社でした。会社設立にあたって、国内30社から15億円の資本金を集めるなど奔走したのは良い思い出です。
上松:認証は今でもとても大事な分野ですよね。大学の研究会でも話題になっていました。けっこう深い世界ですよね。

浅田:セキュリティ技術は中の基本部分が暗号技術なので、数学の塊です。私は昔から数学が得意だったのでこのような技術が容易に理解できました。これをコンピュータシステムに応用するのが情報セキュリティ分野です。私が得意な数学とコンピュータと、そして通信が全部結びついたものが情報セキュリティなので、得意分野の3乗みたいなものでライバルがほとんどいませんでした。
そのようにして、とても楽しいBUG時代でした。10年もいたので自分も大きく成長できました。しかし、何をやるにしても社内に反対されたのには閉口しました。私は社外にはウケが良いのですが、社内では人気なかったんですよね。それを説得する手間が大変なことと、いろいろと自分とは関係ないトラブルなどもあって、辞める決心をしました。
ちょうど阪神淡路大震災があった何年か後の頃だったのですよね、三木谷さんが楽天を立ち上げたのとほとんど同じ理由です。「人生明日は何が起きるかわからない、だからそのうちやりたいと思っていることはいつできなくなってしまうかわからない、今やらなければ!」そう思いました。会社から家まで車で20分くらいかかるのですが、帰り道の運転途中で「明日辞めよう」と急に思い立って、翌日に辞表を提出しました。1997年のことでした。

株式会社オープンループの設立

上松:ドラマのような名シーンが浮かびますね。
浅田:辞めるにあたってお世話になってた人たちに次々と挨拶に言ったんです。そうしたら、「浅田さんが会社を始めるなら仕事を発注しますよ」、「今度これを手伝ってもらいたい」、などとあちこちから言われました。仕事ゼロからのスタートだと覚悟していましたが、たくさんの仕事がある有り難い状態で自分の会社をスタートできました。
特に驚いた出来事は、知らない人が突然事務所を訪ねてきて、出資したいと言われたことです。あなた誰?状態だったわけですが、それはIIJの札幌支店長でした。その時は断りましたが、数年後に初めて外部から投資していただく際にIIJに真っ先に投資していただきました。ありがたいことです。
上松:浅田さんの会社の名前、オープンループってかっこいいですね。
浅田:デジタルマネーの用語で点々流通のことをオープンループといいます。貨幣は例えば日銀が発行した後、誰かから誰かに点々と渡り継がれて最後にまた日銀に戻ってくる。しかしポイントなどは例えば楽天がユーザにポイントを発行して、それが使われてお店に渡って、お店からすぐに楽天に戻ってくる。それはクローズドループです。うちは点々流通ができるような高度なセキュリティ技術をきちんと作ることができる会社ですよ、という意味で名付けました。
上松:取引先には信頼されていたんでしょうね。
浅田:しばらくは鳴かず飛ばずでしたが、創業から1年くらいした時うちの技術が任天堂に採用されたんです。ゲームのカセットの偽物対策や、プリクラのようなソフトに本物のキャラクターを使う際のコンテンツの保護技術として使われるようになったのです。任天堂へのライセンスは新聞等で大きく報道されました。それがきっかけで他社へのライセンスもどんどん増えていきました。しかし、売り上げの多くはNTT研究所から受託した難易度の高いセキュリティ技術の仕事がメインでした。

オープンループのセキュリティ技術が任天堂に採用された時の様子

上松:仕事がたくさん来ても人材がなくて仕事を断ることもありますよね。
浅田:それが私は仕事を断ることができないんですよ。だから仕事が来たら全て受けます(笑)。で、それからもう必死でやってくれる人を探します。人材がいないから仕事を断るような贅沢すぎることはしません。利益率も高い仕事ですから仕事さえあればやってくれる人はいるんです。もちろん肝になる難しい部分は教えます。
上松:右肩上がりで一気に10億円以上の売り上げまで行くとはすごいですね。

オープンループ、NASDAQ Japanへ上場

浅田:創業4期目で売上10億円を達成しました。当時は研究所も研究資金に余裕があって潤沢に開発業務を発注してくれました。そしてオープンループは毎年倍々で成長を遂げて2001年3月に上場を果たしました。新聞にオープンループの記事が載らない日はないくらい話題になり、一瞬北海道銀行を抜いて北海道で時価総額3位にまでなりました。しかし、私にとって上場企業の経営はとても大変だったんです。技術者の私なのに全く開発ができなくなり、経営に専念する毎日になりました。そのうちNTTが研究開発予算を削減し、うちもその煽りを受けて受注が減り、次の展開が見えなくなってきたんですよね。会社の急成長もそこで止まってしまい、私は会社の経営を他の人に譲って退任することになりました。
上松:FIREですね。医学部に入った頃ですよね、確か。論文をたくさん書くことができたのではないでしょうか。そのいきさつを教えてもらえますか。

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